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女房はドーベルマン(2) 3人の天才+新庄

引き続き、『女房はドーベルマン(野村克也著)』より

今回は、野村が野球生活で出会った三人の天才について。

 
一人は南海時代の同僚でもある広瀬叔功。
もう一人は、イチロー。

イチローは走攻守すべてに後光がさすほど輝いていた。イチローの才能は野球のあらゆる面で突出していた。しかも長嶋のようにファンに魅せるプレーを常に心がけている。バッターのタイプとしても長嶋に似ている。イチローの打席には駆け引きや、勝負のあやがない。ピッチャーが投げたボールに対して、感覚だけで打っていると思える。
配球を読まなくても体が反応して打てるのだ。典型的な天才である。だから試合後の談話に面白味がない。

今となってはTV等で野球論を語ることも少なくないイチローだが、その内容に「面白み」があるかといえば確かに違うかもしれない。凡人からすると、彼の異次元さを感じるしかないからだ。

1995年のヤクルト対オリックスの日本シリーズ。
2年連続首位打者だったイチローを何とか抑えようと知恵を絞っていたヤクルト陣。

日本シリーズでオリックスと対戦する前、スコアラーは、イチローに弱点はない、攻略法は見つからない、打たれるものと思ってくださいと言った。徹夜でビデオをみても、どのコースもどの球種も対応できることが分かった。
 
そこで変に小細工せず、インコースをどんどん攻めることを公表することにした。テレビやスポーツ新聞を通じて、自分と古田、投手全員がイチローの弱点はインコース高めと広言した。専門的に言うと、打者に内角意識をもたせることは、打撃面において自軍にとって有利なのだ。プライドの高いイチローは内角高めを打とうとすると読み、内角高めには投げるもののボール球しか投げず、そうするとイチローはボール球に手を出し凡打した。
 
しかしこれが通用したのは2戦目までだった。

なお、このシリーズのイチローの成績は以下のとおり。

第1戦 4打数1安打1三振
第2戦 3打数0安打1三振1四球
第3戦 3打数1安打1打点1三振1四球
第4戦 6打数1安打1三振
第5戦 3打数2安打1打点1四球1本塁打

最終戦でマルチ安打、本塁打も打ったもの、トータル19打数5安打(.263)に終わっている。

 
残された、最後の天才の一人は、長嶋茂雄。
長嶋もイチローと同じように、体が反応して打てるタイプだと言う。

長嶋にはささやき戦術がまったく効かなかった。
ささやきかけても、まったく関係のない言葉が返って来る。
王はちゃんと答えてくれ、会話になる。
しかし、直後に精神統一をはかって集中力をピークにもっていける。

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天才3人からはやや外れるが、新庄剛志について。

新庄はイチローと違って弱点が多い。

とくに日本では選球眼の悪さが致命的だった
頭の上のボールもワンバウンドも振る。
しかも日本のピッチャーはカウントが不利になっても、まともなストライクを投げない。

しかし、メジャーのピッチャーは不利なカウントになると間違いなくストライクを投げてくる。
配球がシンプルで読みやすい。新庄が苦手とするフォークを得意とするピッチャーもいない。
もともとも足と肩の強さ、守備のうまさはメジャー級。
彼が活躍することはある程度予想がついた。

新庄は基本的に、考えて野球をするタイプではない。
負けん気は人一倍強く、目立ちたがり屋。
そんな新庄を理論や理屈で納得させようとしてもダメ。聞く耳はあっても理解力がない

言われたい放題である。

なお、新庄にピッチャーをやらせた理由は2つあると。

1つは下半身の重要さを自覚してほしかった。
もう1つはピッチャーの立場に立って打者を考えてほしかった。

新庄に、野村の意図は果たして伝わったのだろうか。

女房はドーベルマン(1) 野村の選手(兼任監督含)時代

女房はドーベルマン(野村克也著)』より

ひどいタイトルではあるが、、縁あって読むことに。
タイトルのとおり、サッチーにまつわる話が中心。
出版は2002年だが、タイトルと装丁はまるで80年代。

テストを受ける球団を考える際、全球団のメンバーを手にして、2-3年後に自分が1軍にあがれそうな球団を探した。20代バリバリの正捕手がいるチームは消して、残った候補は
広島と南海。そして、都会であり、二軍の選手を育てるのが上手いという定評があった南海にターゲットを絞った。南海では最初はカベ、すなわちブルペン捕手だった。

蔭山監督が就任間もなく亡くなった。表向きには死因は副腎皮質機能不全、いわゆるぽっくり病と発表されたが、真相は自殺であった。

彼の就任をめぐり、球団内部で抗争の嵐が吹き荒れ、嫉妬や追従、工作や裏切りなど凄まじい人間模様に神経をすり減らし、監督に就任したころにはすっかり精神的にまいっていた。死ぬ間際一週間以上食事らしい食事はとっておらず睡眠薬を常用。もともと酒を飲まない人だったのに大量の飲酒。覚悟の死であったと野村は解釈している。

野村に南海監督就任のオファーが来た頃、高校出の監督は川上と中西しかいなかった。その意味ではプロ野球も学歴社会だった。

南海での兼任監督を務めた八年間、チームは人間関係のトラブルが絶えなかった。自分より年輩の選手が協力してくれることもなかった。

サッチーとは遠征時の宿の近く、原宿の行き着けの中華料理店で、店のママが紹介してくれたのがきっかけで出会う。当時、まだ籍が入っていた前妻との関係は冷え切っていた。しばらくして目黒に家を買い、遠征時はそこで2人で過ごした。不倫関係ではあったが、隠さず川勝オーナーに報告すると、男はヘソから下に人格はないから、女性問題は問わない。野球で結果を出してくれればいいと。ダンやケニーもベンチに入ったりグラウンドに出たりしたこともあったが、時代が良かったからか、記者が書き立てることもなかった。

サッチーと住んでいた豊中のマンションに泥棒が入り、それがマスコミに取り上げられ、それからサッチーバッシング、野村バッシングが始まった。

南海で兼任監督を解任されて、日々つけていたノートや、ミット、バット、ユニフォームも全て燃やした。

解任されて1ヶ月後にロッテから声がかかる。金田に会ってみると彼の狙いは江夏だった。しかし江夏はいい返事をしなかった。一流のピッチャー同士でうまくいくはずはないと江夏が考えたのではないか。

そこで、南海時代にコーチも務め勝手知ったる仲だった広島の監督の古葉に声をかけて江夏を推し、トレードが決まった。

南海時代の収入は、選手としてプラス監督としての収入があり、合計すると70年代にして1億円を超えていた。しかしロッテ入団時は1200万円。

ロッテ時代はコーチの役目がなくなるから選手に何も教えないでくれと金田に言われていた。コーチも一度も野村に何か聞きに来ることはなかった。重光オーナーから監督就任を打診されたが、恩のある金田への想いから固辞。つづいて、こちらも川勝オーナーから堤オーナーへの推薦があり西武へ。こちらも年棒は1200万円。

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