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名投手コーチとして知られる尾花高夫の歩んできた道

高橋由伸がジャイアンツの第18代監督となり、昨シーズンまで2軍投手総合コーチだった尾花高夫氏が1軍投手コーチに配置転換となった。

名投手コーチとして名高い尾花ではあるが、歩んできた道は決して順風満帆ではなく、悲喜交々、紆余曲折さまざまがあった。

各メディアでの報道、記事等から、現役引退後、特にここ10年ほどの動向を振り返ってみたい。
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山田久志と落合博満のオールスターでの駆け引き

昔の雑誌を整理していたら、90年9月5日号のNumberに、山田久志氏のコラムが掲載されているのを発見。

今週末にオールスターを控えるが、この号のコラムでは山田と落合の、オールスターにまつわる2つの思い出を語っている。
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究極に自己評価の低い選手と評される黒田博樹

『Number June2012』に掲載されていた、黒田博樹上梓の『決めて断つ』への芦部聡氏の書評コラムより。

そもそも、上宮高校時代、黒田がエースではなく、控え投手だった話は有名。
そして、そこでは過酷な理不尽ともいえる練習をさせられていた話も有名。
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菊池雄星 ルーキー秘話

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

知らぬ間に、周りが期待する「20年にひとりの怪物ルーキー」を演じることばかりに意識が集中し、自分の体が発している黄色信号にも鈍感になっていた。

「トレーナーに報告するときも違和感という言葉に逃げていた。痛いっていうと、二軍に落とされちゃうと思ったので」

菊池は高校3年夏、左のあばら骨を骨折した。人よりも柔らかく、速い腕の振りが原因だった。そのため年内は投球練習は行なわず、年明け、合同自主トレから一気にペースを上げた。結果、新たな故障を招いたのだ。

脇腹がスムーズに動かなくなって、本来の位置より腕が高くなっていた。そのフォームで力を入れて投げたのがまずかった。

それでも痛みが小さかった自主トレ期は、まだ誤魔化しがきいた。ところが2月にキャンプインし、中盤、痛みがはっきりと感じられるようになるにつれ、まずは菊池の調整方法が明らかに冷静さを欠き始める。4日間のノースロー調整をしたかと思いきや、首脳陣に投げられるところをアピールしようと一気に171球も投げ込んだりした。

「何をやっているのか、わからなくなっていましたね。肩を壊したことがなかったので、ちょっと休めば治ると思ったのですが、そんなに甘いものではなかった」

「高校時代なら結果が出なくても、自分という人間だけは認めてもらえた。でも、プロはブルペンでの投球練習も含め、目に見えている部分がすべて。結果を出せない人間に対する見方が厳しくなるのは当たり前なんです。そういう目で見たら人間なんて、悪いところはいくらでも出てくるじゃないですか」

「最初の頃はいいことばかり書かれたのに、悪いことばかり書かれるようになった。マスコミって、そういうものですよね。持ち上げといて、落とす。だから、前に比べると人前に出たくなくなったし、人と話すことも好きじゃなくなった」

「気圧が低いと筋肉が張る。だから雨天の日は力を入れても無駄。ふわ~んと投げる」

90年代ルーキー秘話

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

まずは、仰木監督の野茂英雄へのコメント。
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80年代ルーキー秘話(2)

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

桑田真澄 & 清原和博

甲子園時代のほうが何倍も印象は強いが、プロ入り後も時代を確実に作っていった二人。

桑田は1年目から、「上半身を鍛えれば球速、下半身を鍛えればコントロールが向上する」と理論を展開。先輩たちはそんな桑田を「不思議で陰気」と感じ、”マジックインキ”とあだ名した。

西本しかり、我が道を進む人間は周りから疎まれるもの。
それが、プロ野球の世界にまであるのは寂しい話ではあるが。

 
清原に「プロとは何か」を教えたのは東尾。
銀座でツケで飲めるようになってこそ一人前だと、清原を夜の街に連れ出した。
東尾の清原への言葉。

好きになった女がいたら、グラウンドに連れて行け。汗と泥まみれの姿に何も感じないヤツならやめておけ

また、天真爛漫そうな清原ではあるが、不振に陥った時、室内練習場で涙を流しながら打ち込む清原の姿が目撃されている。

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阿波野秀幸 & 西崎幸広

渡辺久信と合わせて、トレンディ・エースと呼ばれた。彼らはスタミナをつけるために、野球選手定番の焼肉ではなくプロテインを好んで摂取。投げ込みよりも、メジャーで流行していたウェイト中心のトレーニングを重視する。そんな世代の”走り”だった。

それまでセ・リーグを中心にしか見ていなかった自分にとって、阿波野、西崎に西武の渡辺、工藤が球界を引っ張るパ・リーグが眩しく見えたものだった。

80年代ルーキー秘話(1)

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

定岡正二 & 西本聖

西本は1年目からきれいに勝とうなどとは考えていなかった。内角を抉るシュートを覚えると、多摩川のブルペンでの居残り練習で完成度を高めていく。一方の定岡はスライダーを主体にしたきれいなピッチングにこだわった。

ライバルに闘争心を燃やして人一倍努力し、実力を高めていく西本聖。
今の時代にはなかなかここまでの人は現れない。

江川へのライバル心にはついては、「二人のエース<江川卓vs西本聖>」で触れられている。

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原辰徳 & 篠塚利夫

原が守ることになったセカンドは、一つ年上で高校時代から仲の良かった篠塚と同じポジション。「2人を競い合わせて育てていく」と藤田監督は強調したが、気のやさしい篠塚はライバルの原に対しても「巨人のしきたり」を何くれとなく教えた。のちに中畑の故障で原はサードに転向することになるが、監督就任後も「あの時の恩は忘れない」と篠塚の面倒を見た。

確かに、原が初めて監督となった2002~2003年は、前年までの長嶋ジャイアンツのコーチだったこともあり篠塚はコーチを継続。2003年シーズン終了後に二人とも解任され、第二次原ジャイアンツが2005年シーズン後に発足すると、篠塚もコーチとして復帰している。

荒木大輔

神宮球場での練習には女学生が押しかけ、選手たちはろくろくトイレにも行けないほどだった。そんな選手たちの苦情を聞き入れた球団は、混乱回避のために球場と選手サロンとの間にトンネルを建設。このとき作られた地下通路は通称「荒木トンネル」と呼ばれ、現在も当時のままに残されている。

その荒木トンネルの写真がこちら。
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藤王康晴

地元・中日に請われて入団した享栄高の藤王は、先輩の田尾や藤波らに可愛がられ、よく飲みに連れて行かれた。1年目で34試合出場、打率3割6分1厘は立派だが、地元ファンの贔屓の引き倒し、18歳の若さゆえに夜の練習よりも夜の街に溺れてしまった。

新人で背番号1を背負っていたし、名前もなんだか強そうな名前で、子供心に強く印象に残っている選手の一人である。

斎藤佑樹(2) プロに入って

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

甲子園で勝ったこと、神宮で日本一になったことは、今の自分の支えにはなってはいるが、今の自分を励ましてくれるものではない。今はもう、とにかく上しか見てない。

打たれたシーンはあまり覚えてない。抑えたシーンのほうを覚えている。たとえばホームランを打たれて負けたとしても、あの一発で負けたというふうには考えない。むしろ、あの一発がなければ勝てたと考える。別に、そう思おうとしているわけではなく、ホントに思っている。

こういうものを目指しているという具体的なイメージを持って、周りのことをすごく考える。自分のことももちろん、自分が結果を残したらどうなるのかという周りの反応を考えて、ならばどういうふうに結果を残していくか。そういうシナリオをいろいろと考えている。

自分はプロに来た。ここは日本のプロフェッショナル。そこで通用するとか、しないって決められるのは自分だけだと思っている。

アドバイスをもらっても、この人がそう思ってるなら、その意見に合わせればいいって思う。でも、実は合わせてない。最後はやっぱり揺らがない。
別にフォームが良くないから勝てないわけでもないし、フォームがメチャクチャであっても、勝てばそのフォームは通用したことになる。だから、フォームについては、いろんな声が耳に入ってきても、そういう声に対して、そうかもしれないというふうには全然、思わない。今はこれでいいかなと思っている。いずれ、もっと良くしなくちゃいけないところや、直すべき点は何ヵ所かはあると思うが、徐々に何年かかけてやっていければいいなと思っている。

最近、カッコいいなと思うのは、カッコつけてないカッコよさ。高校生ぐらいまでは、物静かでクールな人のことをカッコいいと思っていた。でも今は、明るくて、誰にでも気を遣えるような、そんな人がカッコいいなと思う。

クールに見られるのは心地いい。それが便利なときがある。

斎藤佑樹(1) 高校・大学時代

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

小さいころの野球は、”おもしろい”。楽しいというふうには感じなかった。楽しかったのは、やっぱり高校3年の夏と、大学4年の秋の野球。やっぱり、結果を残していくことで世の中が注目してくれるんで、結果を残していくときが一番、楽しい。

単純に、人よりたくさんの苦労をして、よりよい結果を出すことに快感を覚える。高校のときは、高校2年の夏まで苦労をしてきて、そこから3年の一年間、頑張ってやってきたことの結果を出せた喜びだった。大学のときは1年、2年、3年と苦労が増えて、最後に結果を出せたことへの喜び。これはもう、すごく快感だった。

中学生まで野球を本気でやってきたつもりだったが、でも、本気の野球は知らなかった。早実に入っても、最初は何も背負っていなかったと思う。自分中心で、上だけを見ていた。早くエースになりたいという気持ちだけ。当時は、自分自身がプロ野球で活躍するためにどういうシナリオを描いていくかということばかりを考えていた。

甲子園では後先も考えず、怖いもの知らずだった。ただ、自分がうまくなりたい一心で、ノーマークの状態で勝ち上がった。優勝まで、邪魔するものは何もなかったという感じだった。

甲子園のことはできすぎだ、本当の自分じゃないって自分に言い聞かせていた。自信はあった。でも、できてるうちは「できすぎだ」って思うようにしていた。

大学1年のときはいろんなことが、あまりにも簡単だった。しかも、大学1年でトップを見たから、もうそれ以上はなくなってしまった。

3年になって、そのまま行けばよかったのに、「このままでいいのか」って考えてしまった。今後10年、15年の野球人生、これでいいのかと考えて、新しいことにトライしてみた。そこでちょっとブレーキを踏んでしまったという感じ。

もっと簡単に考えればよかったという思いはある。今は、完全じゃないけど、取り戻せた感覚はある。