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リーグ優勝の翌年、リーグ最下位へ転落したチーム

本日の日経朝刊に掲載されていた、スポーツライター浜田氏のコラムより。

リーグ優勝の翌年、リーグ最下位へ転落したチームは意外と少なく、今まで4例しかない。

61年の大洋、79年のヤクルト、81年の近鉄、そして2013年の日本ハムである。

先の3チームの監督は、三原脩、広岡達朗、西本幸雄といずれ劣らぬ名将揃い。名将といえど転げ落ちるチームを止めるのは至難の技ということだろう。

3球団にそれぞれの事情があったが、内部に大小の不協和音が生じていた点で共通していた。
優勝すると選手の年俸は上がる。期待したほど上がらない選手が不満を抱き、覇気を失う。
また、年俸総額が上がるため、補強費をついケチりがちになる。

年俸を含めたモチベーション管理の難しさがよくわかる。

大洋については、”三原マジック”の知将ばかりが脚光を浴びることへのジェラシーがあった。ヤクルトでは大胆なトレードを望む広岡と、家族主義を掲げるフロントが対立した。近鉄では、西本の後継監督を巡る綱引きがあった。

最下位の翌年に優勝した例はいくつかあるが、優勝⇒最下位⇒優勝という例は一度もないという。
果たして、今年の日ハムはどうだろうか。

日航機墜落事故にこんなエピソードがあったとは

MSN産経WESTの『ナイン搭乗機が墜落、6連敗で首位陥落…号泣の日本一の背景』より。

当時サンスポの記者だった植村徹也氏のコラム。

私が阪神担当になったのは1984(昭和59)年の晩夏。当時は安藤統男監督が成績不振にもかかわらず、留任が一度は発表され、その後、不可解な辞任発表があったまさにその時でした。

次期監督を巡る関西のスポーツ紙の報道は過熱する一方でした。村山か? 吉田か? 歴史的に振り返るとそんなムードだったと思うでしょう。でも、当時は違いました。筆頭候補だった西本幸雄さん(阪急や近鉄を鍛え、優勝させた監督)が監督要請を辞退し、いつ村山さんに監督要請が来るのか? 注目はその一点でした。だから、当時、勤めていた夕刊紙では村山番を命じられ、芦屋・精道町にある自宅に張り付く日々でした。

安藤さんが辞める時も一悶着があったのか。

翌1985(昭和60)年、結果として2度目の監督に返り咲いた吉田義男監督の下、阪神は開幕ダッシュに成功しました。波に乗ったのは4月16日から本拠地・甲子園球場で行われた巨人3連戦でした。第1戦、佐野の打ち上げた中堅前の打球を巨人・河埜が落球し、そこから怒涛の攻撃で10-2の大勝。そして、続く17日、今や伝説になったバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発。翌18日の試合にも勝ち、巨人戦に3連勝して、世の中に猛虎フィーバーが巻き起こりました。

てっきり5月だと記憶していたが、伝説のバックスクリーン3連発は4月だった。
河埜のエラーが未だに語り継がれてしまうのは不運なのか、幸運なのか。

 
そして、阪神21年ぶりのリーグ優勝が見え始めた8月12日、月曜日。
日航機が墜落した。

阪神はその前日、福岡の平和台球場で試合を行い、当日午後の便で福岡国際空港から羽田空港に移動している。しかも阪神が乗ったJAL366便は、その後、JAL123便として伊丹空港に向けて飛び立った機体だった。

けたたましい電話のベル。当時の会社のデスクでした。
「どうも中埜肇球団社長が日航機に乗っていたようや。まだ安否はわからへん」

後楽園球場で巨人戦を迎える阪神は沈痛なムードに包まれていました。まだ生死が判明していませんでしたが、吉田監督は気丈に采配をふるっていましたね。でも、チームに与えた動揺はすさまじく、巨人戦3連敗を含む6連敗を喫するのです。首位の座からも陥落してしまいました。

 
事故4日後に、球団社長の遺体が家族により確認された。

吉田監督らナインは「社長のためにみんなでがんばろう」と奮い立ちました。8月17日の広島戦では、広島市民球場で両軍による黙祷が行われ、スコアボード上の両球団旗を半旗にして試合が行われました。

 
そして10月16日、神宮球場でのヤクルト戦でリーグ優勝が決まった。

ネット裏の記者席から吉田監督の胴上げを見ました。慣れていないから下手くそな胴上げでしたが、だからこそ味がありました。球場を引き揚げていく監督、コーチ、選手たちは声を出して泣いていました。その試合のウイニングボールは直後に、宝塚仁川の社長宅に吉田監督らナインの手で届けられました。日が沈みゆく夕暮れ、玄関先で取材待ちしていると、家の中から男たちの泣き声が漏れていました。激しい泣き声でした。嗚咽でした…。

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