RSS

タグ : 江夏豊 3件あります

遠いマウンド<江夏豊>

再び、新宮正春著の「二人のエース」から。
今回が最後。

この章では再び、江夏豊がフィーチャーされている。
西武時代よりはましなのだろうが、広島時代の時すでに握力は相当落ちていることがわかる。

昭和54年、広島大学が調査した選手の体力データ。
左手の握力が、山本浩二68、高橋里志70に対して江夏22。右手も49だった。
本人曰く、入団当時は60以上はあったとのこと。
リリーフで30-40球投げた後は、15までしかいかない。
 
いい投手ほどマウンドに立つときはごく軽くボールを握る。握った手もとを叩くだけでボールがポロリと落ちるほど力を入れないものだが、それでも指先から離す瞬間にはピシリとという小気味の良い音が捕手にきこえるくらい力が加わるのがふつうだ。握力が弱いとどうしてもリリースポイントが甘くなる。
 
不思議なのはそれほど握力が低下しているはずの江夏が、古葉の前では全然そういうふりをみせないことだった。投手という種族には、登板前にそれとなく肩やヒジがおかしいような格好をしてみせ、打たれたときの言いわけをあらかじめこしらえておくタイプが多いが、江夏はまったく違っていた。
 
いつも表情を消してブルペンに向かう江夏の顔に、出番がまわってきたときだけ、一瞬、喜びの色が浮かぶのを古葉は知っていた。
 
江夏本人も、入場料を払って見に来るファンに、できるだけいい芸をみせるのが仕事師というものだと思っていた。

“打たれたときの言いわけをあらかじめこしらえておくタイプ”は大投手にはなれないだろう。

野村の著書でも度々江夏のエピソードは登場するが、相当強い繋がりがあることがわかる。

「刀根山村の村長さん」。豊中市刀根山の同じマンションに住んでいるところから、江夏がつねづねそう呼んでいた野村が突然監督を解任させられたのは、52年のシーズン中のこと。江夏はやはり同じマンションにいる柏原純一とともにかけつけ、八日間にわたって立てこもった。
 
「ワシは生涯一捕手で通すけど、ユタカはきっと広島でもうひと花咲かせられるぞ」
いよいよ広島へ行くという日、電話で話した野村の低い声が、江夏の頭の奥底にこびりついていた。

柏原もいたというのがちょっと面白い。

王との対戦について。

セ・リーグに復帰して三年ぶりの対巨人戦(S53.4.22)で、リリーフ登板した江夏は、いきなり王と対決した。王に対し過去132打席にわたって敬遠四球がただの一度もないのが、仕事師としての江夏のひそかな誇りだった。

「ほんま、王さんは惚れ惚れするほどええ顔してる…」

王のような歯ごたえのある相手にぶつかると、熱い血がからだじゅうを駆け巡るのが、自分でも不思議だった。

強い選手であればあるほど、王の存在は大きかったことが伝わってくる。

そして、昭和54年。あの「江夏の21球」が生まれた年。

54年のペナントレースは、開幕早々から先発救援陣が総崩れとなり江夏はくる日もくる日もリリーフとして登板した。
名火消しとして評判が高くなるにつれ、ベンチから批判の声も聞こえてきたが、いつも無表情でいい仕事をしているたびに小さくなっていった。6/5のナゴヤ球場での高橋里志の大鏡打破事件を機に、江夏のリリーフエースとしての立場はかえって高まったが、反面、自分に向けられる無言の不満にもじっと耐えなければならなくなった。
夏に入って、あれほど好きだった麻雀もぴたりとやめた。

蛇足になるが、この本を読むまで”高橋里志の大鏡打破事件”なるものは知らなかった。
wikipedia等で調べるかぎり高橋里志がかなり悪者に描かれている。
実際がどうなのかは知らないが、野村に嫌われ、江夏ともウマが合わないとは、最多勝・最優秀防御率を1度ずつとっているにも関わらず、引退後含めその後の野球人生はやりにくかったのではないかと思われる。

ローンウルフの哀歌<江夏豊vs江川卓>

続けて、新宮正春氏著の「二人のエース」から。

この章は主に、日ハムから西武へ移籍した当時の江夏豊と、移籍先の監督である広岡達朗にまつわる話。

まずは江夏豊の身体について。

江夏の左手の握力はきわめて弱い。南海のころの血行障害がいまだに尾を引いており、握力計を力いっぱい握り締めてもゲージは「15」を指さないときもあった。
 
47年に盲腸を手術してから急に太るようになり、それが心臓を圧迫するのか、長いイニングを投げることができなくなった。
 
1試合あたり50球以上投げるとたちまち指先が氷のように冷たくなった。野村がリリーフエースとして再生させなかったなら、投手生命はそこで燃え尽きていただろう。
ただ、そこまで握力が低下していることを、江夏は誰にも言わなかった。

握力が低下し、心臓にも負担。
凄い状況で投げていたものだ。

江夏には、強烈な自負がある。

精密機械でも扱うように自分の肉体をいたわり、つねにフル稼働できる状態においてきた。
「わしにはわしのやり方があるのんや、やり方はちごうとっても、目的は一緒なんやから、話し合えば広岡さんもわかってくれるはずや」
西武の練習法のちがいを耳にするたびに、江夏はそう自分に言い聞かせるように呟いてきた。

江夏の形式美。こだわり。

江夏はロージンバッグを一度も投げ捨てたことはない。いつもプレートの右側の決まった位置に、決まったかたちでそっと置く。
 
グラブをはめた右手を膝頭のやや上に軽くつけ、反り気味に捕手のシグナルを覗き込む。このポーズが、相手のバッターに無言の威圧感を与えることを江夏は計算に入れている。

そして、当時の西武監督である広岡達朗。

広岡は、巨人にいたときから、スポーツ紙がどんなに執拗に追っかけて来ようと、一度も居留守を使ったことがなく、質問されるとノーコメントで応じたこともなかった。
ありのまま本心を喋って、それで誤解されたり損をしても、いっこうに気にかけなかった。西武の監督になってからは、つとめて強い表現を避けるようにしてきたが、それでも水を向けられるとつい胸の内を明かしてしまう。愛想はないが、つねに表へ出て本音を喋るため、不思議な爽やかさが残った。

ゼネラル・マネージャー的なポストにいる前監督の根本との微妙な位置関係の問題もあった。連続日本一となっても、観客動員数は勝率と反比例して年々かなりの幅で落ち込んでいるという現実が一方ではあった。江夏を獲得するために、根本は広岡に事前に一言も相談せずに、広岡が中継ぎに期待していた柴田と木村広の両投手を放出し、電撃的にトレードを取り決めた。
江夏というアイキャッチャーが入れば、観客動員数も伸びるし、巨人との日本シリーズへの布石としてもこの投資は生きるはずだという読みが根本にはあった。

時を経て、広岡氏は千葉ロッテのGMとなっていたが、その時には西武時代の経験が生きたのだろうか。

所沢キャンプが第三クールに入った59年1月24日、江夏は全身66箇所にゲルマニウムの粒を貼り付けられた。一粒2500円で66粒で16万5000円となる。昼には胚芽パンも食べた。
 
ピッチングの仕上げに入ってから、江夏はがぜん自己流の調整法にこだわり始めた。ブルペンで投球練習する予定を、急にとりやめにしたり、雨のなかを一人遠投をしたり、自分のフィーリングを大切にするやり方に切り換えたのである。
 
広岡の目がふとなごんだのは、江夏がブルペンでまずアウトコースぎりぎりに初球を投げたときだった。そのポイントを起点に、ボール一個分ずつ下へ下へとずらしていく江夏独特の微調整である。
 
もともと広岡は、江夏のピッチング技術を高く評価していた。

最後に、江川の江夏への印象はというと。

これまでに一度江夏と対談で話をしている。印象は悪くなかった。
人一倍カンが鋭く、好奇心の強い江川は、一見ふてぶてしく構えている江夏の内部に、ガラス細工のような繊細さと脆さが隠されているのにすぐ気づいた。
江夏の一人称が、くるくる変わるのも江川には興味深いことの一つだった。”わし”と言ったかと思うと、次には”おれ”になり、しばらくすると”ぼく”という具合に一定していない。

女房はドーベルマン(1) 野村の選手(兼任監督含)時代

女房はドーベルマン(野村克也著)』より

ひどいタイトルではあるが、、縁あって読むことに。
タイトルのとおり、サッチーにまつわる話が中心。
出版は2002年だが、タイトルと装丁はまるで80年代。

テストを受ける球団を考える際、全球団のメンバーを手にして、2-3年後に自分が1軍にあがれそうな球団を探した。20代バリバリの正捕手がいるチームは消して、残った候補は
広島と南海。そして、都会であり、二軍の選手を育てるのが上手いという定評があった南海にターゲットを絞った。南海では最初はカベ、すなわちブルペン捕手だった。

蔭山監督が就任間もなく亡くなった。表向きには死因は副腎皮質機能不全、いわゆるぽっくり病と発表されたが、真相は自殺であった。

彼の就任をめぐり、球団内部で抗争の嵐が吹き荒れ、嫉妬や追従、工作や裏切りなど凄まじい人間模様に神経をすり減らし、監督に就任したころにはすっかり精神的にまいっていた。死ぬ間際一週間以上食事らしい食事はとっておらず睡眠薬を常用。もともと酒を飲まない人だったのに大量の飲酒。覚悟の死であったと野村は解釈している。

野村に南海監督就任のオファーが来た頃、高校出の監督は川上と中西しかいなかった。その意味ではプロ野球も学歴社会だった。

南海での兼任監督を務めた八年間、チームは人間関係のトラブルが絶えなかった。自分より年輩の選手が協力してくれることもなかった。

サッチーとは遠征時の宿の近く、原宿の行き着けの中華料理店で、店のママが紹介してくれたのがきっかけで出会う。当時、まだ籍が入っていた前妻との関係は冷え切っていた。しばらくして目黒に家を買い、遠征時はそこで2人で過ごした。不倫関係ではあったが、隠さず川勝オーナーに報告すると、男はヘソから下に人格はないから、女性問題は問わない。野球で結果を出してくれればいいと。ダンやケニーもベンチに入ったりグラウンドに出たりしたこともあったが、時代が良かったからか、記者が書き立てることもなかった。

サッチーと住んでいた豊中のマンションに泥棒が入り、それがマスコミに取り上げられ、それからサッチーバッシング、野村バッシングが始まった。

南海で兼任監督を解任されて、日々つけていたノートや、ミット、バット、ユニフォームも全て燃やした。

解任されて1ヶ月後にロッテから声がかかる。金田に会ってみると彼の狙いは江夏だった。しかし江夏はいい返事をしなかった。一流のピッチャー同士でうまくいくはずはないと江夏が考えたのではないか。

そこで、南海時代にコーチも務め勝手知ったる仲だった広島の監督の古葉に声をかけて江夏を推し、トレードが決まった。

南海時代の収入は、選手としてプラス監督としての収入があり、合計すると70年代にして1億円を超えていた。しかしロッテ入団時は1200万円。

ロッテ時代はコーチの役目がなくなるから選手に何も教えないでくれと金田に言われていた。コーチも一度も野村に何か聞きに来ることはなかった。重光オーナーから監督就任を打診されたが、恩のある金田への想いから固辞。つづいて、こちらも川勝オーナーから堤オーナーへの推薦があり西武へ。こちらも年棒は1200万円。