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「向上心 米野球に学ぶ」工藤公康

20120515の日本経済新聞のスポーツ欄コラムより。

プロ3年目、西武時代の1984年の夏に広岡達郎監督から米国行きを命じられた。向かったのはカリフォルニアにある1A、サンノゼ・ビーズ。青山道雄さんら8人ほどの武者修行だった。

私は抑えを任された。と同時にそれまでストッパー役を務めていた投手の姿がなくなった。ひとつの”場所”にはまる人が現れれば今までいた人はもういらなくなる。「育てる」なんて発想はなく、「使い捨て」といっていい環境に置かれる。選手は試合でひたすら結果を残すことに注力する。

日本での私はそのころ、朝から晩まで野球漬けの生活を送っていた。毎日20キロは走り、200球を超える投球練習をしていた。それでも「このまま終わっていくんだろうな」という不安がぬぐえなかった。日本一厳しい練習をしても足が速くなるわけではなく、スピードボールが投げられたり、コントロールが良くなったりしたわけでもない。ただ毎日の練習や試合をこなしているだけの選手だった。

今思えば、プロの練習をしていればいつか良くなるという甘い考えだった。他人にやらされるのではなく、自分から立ち向かっていかなくてはいけないのに「どうせオレなんか」とあきらめが先に立っていたのだ。

野球の本場で学んだのは、自分を高めようとする意志だった。

球にスピードがないのなら、筋力などパワーをつければいい。コントロールが悪いなら、良くするために何が必要かを考えて、まず動くことだ。とにかくやること。心の持ちようひとつで、人は変わることができる。

「真の”プロ”への道」工藤公康

20120410の日本経済新聞のスポーツ欄コラムより。

1995年のダイエーへの移籍直後は驚きの連続だった。西武では全員が「勝つために何をすればいいか」を自覚し実戦を想定して練習したが、ダイエーではキャンプから走らないし動かない。シーズン中、エラーした選手が照れ笑いでベンチに帰ってきたこともあった。思わず怒鳴ったが、当時、「勝つことの難しさ」を理屈で訴えても理解されなかったと思う。

当時、王監督は高卒で95年入団の城島健司を一人前の捕手にしたいという思いがあった。だが、若い彼はただミーティングで言われた通りにサインを出しているだけ。リードとはいえず、捕手としての意思もない。

これではまずいと思った。自分が配球まで考えないと城島にアドバイスすらできない。私は西武時代からのすべてのビデオを引っ張り出しては、毎日見直した。研究したのは打者の見逃し方、ファウルの打ち方、右打者なら右方向への打ち方など。実際の試合で試しながら失敗と成功を繰り返すうち、打者の狙い球を「感じる」ことができるようになっていった。

すべての打者に対してどんな球を待っているのか、どの方向に打ちたいのかがわかったのが99年だった。白球を放す瞬間、自分と相手のタイミングが合っていると感じてとっさにボール球にすることもできた。

城島のサインにわざと首を振らなくなったのもこの年。サインに意思を持たせ、打者の狙いを自ら感じようとしない限り、彼の成長はないと思ったのだ。

城島は見事に期待に応え、チームは優勝という美酒に酔った。