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十分間の首位打者<古葉竹識>

こちらも、「二人のエース」新宮正春著より。

まずは、昭和38年、長島と首位打者争いを演じているさなか、大洋戦でデッドボールを受け、残り13戦を棒に振った時のエピソード。

古葉が入院したときの打率は.339であった。この時点で長島は.345。
そういう微妙な状況なときに、古葉はライバルである長島にあてて手紙を書いた。
「自分はもうシーズン終了まで試合には出られないが、どうか長島さんは最後の最後まであの気迫のこもったバッティングで打ちまくってください。病院のベッドから、長島さんのご活躍を祈っています。」
古葉は、ライバルが張り合いを失って打率を低下させることを恐れていた。

受け取った側としては、励みにもなるだろうが、プレッシャーにもなるだろう。
デッドボールを受けたのが巨人戦じゃなかったのは救いだったのではないか。

古葉の人柄について。

古葉は、人前で決して怒鳴りつけることをせず、つとめて選手をたてた。遠征先の球場にはたいてい監督室という名の個室があったが、古葉は一度もその個室に足を踏み入れたことはなかった。選手といつも一緒にいて、「古葉さん」とさん付けで呼ばれる不思議な監督である。

今度は長島から祝電を受け取ることに。

昭和50年、初優勝をなしとげた時、その年最下位に沈み、胴上げの時にも逃げるようにダグアウトに駆け込んでいったという長島から祝電が届いた。
 
「ハツユウショウ オメデトウゴザイマス ニホンシリーズノゴケントウヲイノリマス ナガシマシゲオ」
 
古葉にはてのひらに載せた一通の祝電が、なぜかひどく重いもののように思えた。首位打者争いにしのぎを削り合った十二年前、古葉から送った激励の手紙も、受け取る側にとってはこの祝電のように重い意味を持つものだったかもしれなかった。

女房はドーベルマン(1) 野村の選手(兼任監督含)時代

女房はドーベルマン(野村克也著)』より

ひどいタイトルではあるが、、縁あって読むことに。
タイトルのとおり、サッチーにまつわる話が中心。
出版は2002年だが、タイトルと装丁はまるで80年代。

テストを受ける球団を考える際、全球団のメンバーを手にして、2-3年後に自分が1軍にあがれそうな球団を探した。20代バリバリの正捕手がいるチームは消して、残った候補は
広島と南海。そして、都会であり、二軍の選手を育てるのが上手いという定評があった南海にターゲットを絞った。南海では最初はカベ、すなわちブルペン捕手だった。

蔭山監督が就任間もなく亡くなった。表向きには死因は副腎皮質機能不全、いわゆるぽっくり病と発表されたが、真相は自殺であった。

彼の就任をめぐり、球団内部で抗争の嵐が吹き荒れ、嫉妬や追従、工作や裏切りなど凄まじい人間模様に神経をすり減らし、監督に就任したころにはすっかり精神的にまいっていた。死ぬ間際一週間以上食事らしい食事はとっておらず睡眠薬を常用。もともと酒を飲まない人だったのに大量の飲酒。覚悟の死であったと野村は解釈している。

野村に南海監督就任のオファーが来た頃、高校出の監督は川上と中西しかいなかった。その意味ではプロ野球も学歴社会だった。

南海での兼任監督を務めた八年間、チームは人間関係のトラブルが絶えなかった。自分より年輩の選手が協力してくれることもなかった。

サッチーとは遠征時の宿の近く、原宿の行き着けの中華料理店で、店のママが紹介してくれたのがきっかけで出会う。当時、まだ籍が入っていた前妻との関係は冷え切っていた。しばらくして目黒に家を買い、遠征時はそこで2人で過ごした。不倫関係ではあったが、隠さず川勝オーナーに報告すると、男はヘソから下に人格はないから、女性問題は問わない。野球で結果を出してくれればいいと。ダンやケニーもベンチに入ったりグラウンドに出たりしたこともあったが、時代が良かったからか、記者が書き立てることもなかった。

サッチーと住んでいた豊中のマンションに泥棒が入り、それがマスコミに取り上げられ、それからサッチーバッシング、野村バッシングが始まった。

南海で兼任監督を解任されて、日々つけていたノートや、ミット、バット、ユニフォームも全て燃やした。

解任されて1ヶ月後にロッテから声がかかる。金田に会ってみると彼の狙いは江夏だった。しかし江夏はいい返事をしなかった。一流のピッチャー同士でうまくいくはずはないと江夏が考えたのではないか。

そこで、南海時代にコーチも務め勝手知ったる仲だった広島の監督の古葉に声をかけて江夏を推し、トレードが決まった。

南海時代の収入は、選手としてプラス監督としての収入があり、合計すると70年代にして1億円を超えていた。しかしロッテ入団時は1200万円。

ロッテ時代はコーチの役目がなくなるから選手に何も教えないでくれと金田に言われていた。コーチも一度も野村に何か聞きに来ることはなかった。重光オーナーから監督就任を打診されたが、恩のある金田への想いから固辞。つづいて、こちらも川勝オーナーから堤オーナーへの推薦があり西武へ。こちらも年棒は1200万円。