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昭和43年巨人ドラフト1位 島野修の生き方

NEWSポストセブン『巨人ドラ1選手が他球団マスコットの「中の人」になった経緯』より。

島野氏の名前は記憶の片隅にあるかなという程度だった。

「黄金のドラフト」といわれた1968年。
山本浩二(広島)、星野仙一(中日)、田淵幸一(阪神)、山田久志(阪急)といった錚々たるメンバーが連なる中、巨人が1位指名したのが島野修。

神奈川県武相高校出身。高校時代は2年連続甲子園に出場。
県予選ではノーヒットノーラン、18奪三振を記録した右腕投手。

当時巨人は田淵を狙っていたが阪神に奪われ、島野を大洋に持って行かれるならばと指名したのだった。球界では驚きの指名で、巨人入りを希望していた星野が「島と星の間違いじゃないか」と言ったというエピソードは語り草である。

さすが星野さん、当時から瞬発力のある言葉を残している。

ドラフト1位ということで周囲からいつも見られているプレッシャーがあった。1年目に1勝を上げると、もっと良くなるとフォーム改造を指示され、それが原因で肩を故障。(島野)

そのまま鳴かず飛ばずで、24試合で1勝4敗。1976年に阪急に移籍。
阪急では、同期の山田が既に90勝を上げ、大エースに成長していた。阪急でも結果を残せず1978年に引退。

どの世界でも、自分を持つ強さが求められる。

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山田には同期のよしみでよく食事に連れて行ってもらっていた。引退後、芦屋でスナックを開業した時も、仲間は店に来てくれた。だが島野は、今ひとつ肩身が狭かったという。「俺は球場では何も残せていない」という後ろめたさがあった。

そんな時、阪急がマスコット「ブレービー」の役者を募集していることを知った。表に立てずに終わった自分が裏に回ろうと心に決めて、すぐに応募した。

夏の試合、ぬいぐるみの中は40度を軽く超える。汗と泥にまみれ、一生懸命パフォーマンスをしていたが、西宮球場には閑古鳥が鳴いていた。だがマスコットの人気はあり、夏休みに観戦に来ていた親子連れが、「パパ、明日もブレービーを見に連れて行って」と言ってくれたことが何よりも嬉しかった。

阪急が身売りをしてオリックスになり、マスコットが「ネッピー」に変わってからも職を続けた。

経営しているスナックも順調なのに、なぜぬいぐるみに入ることにしたのかと記者が問うと、

同期のドラフト1位はすごい連中ばかり。それができなかった自分はこれで生きるしかないんだ。わからないだろうけどね。

との答え。

マスコットを天職と言っていた島野。イチロー人気で、グリーンスタジアム神戸が満員になった時は「少し恩返しできたね」と。

プロ野球はこういう裏方が支えている。

プロ野球選手の夜の伝説(その2)

以前、「プロ野球選手の夜の伝説」という記事を投稿したが、夜の伝説は1記事に収まる量ではとてもなかったので続きをば。

小谷野栄一(日ハム)、鶴岡慎也(日ハム)、高口隆行(当時:ロッテ)

2012年1月9日、一般人によるTwitterで、合コンしていたことが以下のように晒される。
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プロ野球選手の夜の伝説(その1)

お金も体力もあり余っているプロ野球選手。
となると、まことしやかに語られる夜の伝説の数も当然多くなる。

真偽不明のものも多いが、週刊誌に掲載されていたものの中から、これぞというエピソードをいくつか紹介しよう。
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清原のこだわりが見えた野田との1打席真剣勝負

Sponichi Annexに連載されている中川充四郎氏のコラムより。
西武OB清原氏に見た「野球人」のこだわり』。

2013年の8月30日から9月5日まで「レジェンド・シリーズ2013」と銘打って、パ・リーグの各球団は往年のユニホームを着用。それに関連したイベントとして、8/30の試合前に西武OBの清原とオリックスOBの野田が「1打席真剣勝負」を行なった。

打席での清原の表情は真剣そのもので笑顔はなし。とはいっても右前に落とした対戦後には笑顔を見せた。その後、右打席をならしたのは、昨年の自身の始球式後にマウンドをならしたのと同じ気持ちからだろう。

もう一つ感心したのは自前のバットとヘルメットを持参してきたこと。バットは借用しヘルメットまでは用意しないのが普通。これが清原の持つこだわりと「野球の美学」だ。イベント後の試合観戦で、おそらく来年から自分が付けていた背番号「3」の後継者になると思われる浅村栄斗の打席では身を乗り出して見入っていた。やっぱり「タレント」ではなく「野球人」なのだ。

対戦の動画をYouTubeで見ることが出来る。

この動画で見ると、野田は終始笑顔だが、清原は真剣そのもの。
さすがに野田のフォークに空振りした後は、打席内で苦笑しているようではあるが。
それにしても野田は全球フォークを投げている。
それをちゃんと当てられる清原もたいしたものだ。
きっと練習をして臨んだのだろう。

なお、この放送後に話題になっていたが、清原の黒さが際立っている。

「野田は野田なのに、清原はブーマーになっとる」

というネット上の書き込みには思わず笑ってしまった。

遠いマウンド<江夏豊>

再び、新宮正春著の「二人のエース」から。
今回が最後。

この章では再び、江夏豊がフィーチャーされている。
西武時代よりはましなのだろうが、広島時代の時すでに握力は相当落ちていることがわかる。

昭和54年、広島大学が調査した選手の体力データ。
左手の握力が、山本浩二68、高橋里志70に対して江夏22。右手も49だった。
本人曰く、入団当時は60以上はあったとのこと。
リリーフで30-40球投げた後は、15までしかいかない。
 
いい投手ほどマウンドに立つときはごく軽くボールを握る。握った手もとを叩くだけでボールがポロリと落ちるほど力を入れないものだが、それでも指先から離す瞬間にはピシリとという小気味の良い音が捕手にきこえるくらい力が加わるのがふつうだ。握力が弱いとどうしてもリリースポイントが甘くなる。
 
不思議なのはそれほど握力が低下しているはずの江夏が、古葉の前では全然そういうふりをみせないことだった。投手という種族には、登板前にそれとなく肩やヒジがおかしいような格好をしてみせ、打たれたときの言いわけをあらかじめこしらえておくタイプが多いが、江夏はまったく違っていた。
 
いつも表情を消してブルペンに向かう江夏の顔に、出番がまわってきたときだけ、一瞬、喜びの色が浮かぶのを古葉は知っていた。
 
江夏本人も、入場料を払って見に来るファンに、できるだけいい芸をみせるのが仕事師というものだと思っていた。

“打たれたときの言いわけをあらかじめこしらえておくタイプ”は大投手にはなれないだろう。

野村の著書でも度々江夏のエピソードは登場するが、相当強い繋がりがあることがわかる。

「刀根山村の村長さん」。豊中市刀根山の同じマンションに住んでいるところから、江夏がつねづねそう呼んでいた野村が突然監督を解任させられたのは、52年のシーズン中のこと。江夏はやはり同じマンションにいる柏原純一とともにかけつけ、八日間にわたって立てこもった。
 
「ワシは生涯一捕手で通すけど、ユタカはきっと広島でもうひと花咲かせられるぞ」
いよいよ広島へ行くという日、電話で話した野村の低い声が、江夏の頭の奥底にこびりついていた。

柏原もいたというのがちょっと面白い。

王との対戦について。

セ・リーグに復帰して三年ぶりの対巨人戦(S53.4.22)で、リリーフ登板した江夏は、いきなり王と対決した。王に対し過去132打席にわたって敬遠四球がただの一度もないのが、仕事師としての江夏のひそかな誇りだった。

「ほんま、王さんは惚れ惚れするほどええ顔してる…」

王のような歯ごたえのある相手にぶつかると、熱い血がからだじゅうを駆け巡るのが、自分でも不思議だった。

強い選手であればあるほど、王の存在は大きかったことが伝わってくる。

そして、昭和54年。あの「江夏の21球」が生まれた年。

54年のペナントレースは、開幕早々から先発救援陣が総崩れとなり江夏はくる日もくる日もリリーフとして登板した。
名火消しとして評判が高くなるにつれ、ベンチから批判の声も聞こえてきたが、いつも無表情でいい仕事をしているたびに小さくなっていった。6/5のナゴヤ球場での高橋里志の大鏡打破事件を機に、江夏のリリーフエースとしての立場はかえって高まったが、反面、自分に向けられる無言の不満にもじっと耐えなければならなくなった。
夏に入って、あれほど好きだった麻雀もぴたりとやめた。

蛇足になるが、この本を読むまで”高橋里志の大鏡打破事件”なるものは知らなかった。
wikipedia等で調べるかぎり高橋里志がかなり悪者に描かれている。
実際がどうなのかは知らないが、野村に嫌われ、江夏ともウマが合わないとは、最多勝・最優秀防御率を1度ずつとっているにも関わらず、引退後含めその後の野球人生はやりにくかったのではないかと思われる。

十分間の首位打者<古葉竹識>

こちらも、「二人のエース」新宮正春著より。

まずは、昭和38年、長島と首位打者争いを演じているさなか、大洋戦でデッドボールを受け、残り13戦を棒に振った時のエピソード。

古葉が入院したときの打率は.339であった。この時点で長島は.345。
そういう微妙な状況なときに、古葉はライバルである長島にあてて手紙を書いた。
「自分はもうシーズン終了まで試合には出られないが、どうか長島さんは最後の最後まであの気迫のこもったバッティングで打ちまくってください。病院のベッドから、長島さんのご活躍を祈っています。」
古葉は、ライバルが張り合いを失って打率を低下させることを恐れていた。

受け取った側としては、励みにもなるだろうが、プレッシャーにもなるだろう。
デッドボールを受けたのが巨人戦じゃなかったのは救いだったのではないか。

古葉の人柄について。

古葉は、人前で決して怒鳴りつけることをせず、つとめて選手をたてた。遠征先の球場にはたいてい監督室という名の個室があったが、古葉は一度もその個室に足を踏み入れたことはなかった。選手といつも一緒にいて、「古葉さん」とさん付けで呼ばれる不思議な監督である。

今度は長島から祝電を受け取ることに。

昭和50年、初優勝をなしとげた時、その年最下位に沈み、胴上げの時にも逃げるようにダグアウトに駆け込んでいったという長島から祝電が届いた。
 
「ハツユウショウ オメデトウゴザイマス ニホンシリーズノゴケントウヲイノリマス ナガシマシゲオ」
 
古葉にはてのひらに載せた一通の祝電が、なぜかひどく重いもののように思えた。首位打者争いにしのぎを削り合った十二年前、古葉から送った激励の手紙も、受け取る側にとってはこの祝電のように重い意味を持つものだったかもしれなかった。

ローンウルフの哀歌<江夏豊vs江川卓>

続けて、新宮正春氏著の「二人のエース」から。

この章は主に、日ハムから西武へ移籍した当時の江夏豊と、移籍先の監督である広岡達朗にまつわる話。

まずは江夏豊の身体について。

江夏の左手の握力はきわめて弱い。南海のころの血行障害がいまだに尾を引いており、握力計を力いっぱい握り締めてもゲージは「15」を指さないときもあった。
 
47年に盲腸を手術してから急に太るようになり、それが心臓を圧迫するのか、長いイニングを投げることができなくなった。
 
1試合あたり50球以上投げるとたちまち指先が氷のように冷たくなった。野村がリリーフエースとして再生させなかったなら、投手生命はそこで燃え尽きていただろう。
ただ、そこまで握力が低下していることを、江夏は誰にも言わなかった。

握力が低下し、心臓にも負担。
凄い状況で投げていたものだ。

江夏には、強烈な自負がある。

精密機械でも扱うように自分の肉体をいたわり、つねにフル稼働できる状態においてきた。
「わしにはわしのやり方があるのんや、やり方はちごうとっても、目的は一緒なんやから、話し合えば広岡さんもわかってくれるはずや」
西武の練習法のちがいを耳にするたびに、江夏はそう自分に言い聞かせるように呟いてきた。

江夏の形式美。こだわり。

江夏はロージンバッグを一度も投げ捨てたことはない。いつもプレートの右側の決まった位置に、決まったかたちでそっと置く。
 
グラブをはめた右手を膝頭のやや上に軽くつけ、反り気味に捕手のシグナルを覗き込む。このポーズが、相手のバッターに無言の威圧感を与えることを江夏は計算に入れている。

そして、当時の西武監督である広岡達朗。

広岡は、巨人にいたときから、スポーツ紙がどんなに執拗に追っかけて来ようと、一度も居留守を使ったことがなく、質問されるとノーコメントで応じたこともなかった。
ありのまま本心を喋って、それで誤解されたり損をしても、いっこうに気にかけなかった。西武の監督になってからは、つとめて強い表現を避けるようにしてきたが、それでも水を向けられるとつい胸の内を明かしてしまう。愛想はないが、つねに表へ出て本音を喋るため、不思議な爽やかさが残った。

ゼネラル・マネージャー的なポストにいる前監督の根本との微妙な位置関係の問題もあった。連続日本一となっても、観客動員数は勝率と反比例して年々かなりの幅で落ち込んでいるという現実が一方ではあった。江夏を獲得するために、根本は広岡に事前に一言も相談せずに、広岡が中継ぎに期待していた柴田と木村広の両投手を放出し、電撃的にトレードを取り決めた。
江夏というアイキャッチャーが入れば、観客動員数も伸びるし、巨人との日本シリーズへの布石としてもこの投資は生きるはずだという読みが根本にはあった。

時を経て、広岡氏は千葉ロッテのGMとなっていたが、その時には西武時代の経験が生きたのだろうか。

所沢キャンプが第三クールに入った59年1月24日、江夏は全身66箇所にゲルマニウムの粒を貼り付けられた。一粒2500円で66粒で16万5000円となる。昼には胚芽パンも食べた。
 
ピッチングの仕上げに入ってから、江夏はがぜん自己流の調整法にこだわり始めた。ブルペンで投球練習する予定を、急にとりやめにしたり、雨のなかを一人遠投をしたり、自分のフィーリングを大切にするやり方に切り換えたのである。
 
広岡の目がふとなごんだのは、江夏がブルペンでまずアウトコースぎりぎりに初球を投げたときだった。そのポイントを起点に、ボール一個分ずつ下へ下へとずらしていく江夏独特の微調整である。
 
もともと広岡は、江夏のピッチング技術を高く評価していた。

最後に、江川の江夏への印象はというと。

これまでに一度江夏と対談で話をしている。印象は悪くなかった。
人一倍カンが鋭く、好奇心の強い江川は、一見ふてぶてしく構えている江夏の内部に、ガラス細工のような繊細さと脆さが隠されているのにすぐ気づいた。
江夏の一人称が、くるくる変わるのも江川には興味深いことの一つだった。”わし”と言ったかと思うと、次には”おれ”になり、しばらくすると”ぼく”という具合に一定していない。

二人のエース<江川卓vs西本聖>

元報知新聞記者の新宮正春氏による著作。

本の内容とは関係ないが、私はこの本を神保町の野球専門の古書店として有名な「ビブリオ」にて購入した。
本の中には、おそらくこの本を最初に購入した方が挟んだであろうレシートが挟まれていた。
それによると、1990年11月に保谷市にある「BOOKS-J」という書店にて購入している。
消費税が3%の時代だ。こういった歴史が感じられるのも古書の良さ。

 
私が手にした文庫本の発売は90年だが、単行本としては84年12月に出されている。

本書は10章に別れていて、それぞれの章で主役となる選手は異なり、各章だけでも成り立っているが、章毎が少しずつ関連していて、全体を読むとおさまりが良いつくりになっている。

以下、章毎に気になった点をピックアップ。

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今回の投稿では、表紙のイラストにも使われ、84年当時の球界を代表するエース二人にスポットを当てた<江川卓vs西本聖>編より。

本書全体としては、”二人のエース”に焦点を当てた構成にはなっていないことを考えると、このタイトル及び話の順番は、商業的理由も大きいのだろう。
当時の二人のネームバリューは相当大きかったと考えられる。

まずは、江川が肩を冷やすのをかなり警戒していたというエピソード。

江川は、汗で濡れたシャツで肩を冷やすのを警戒し、いつもほかの投手より多目に予備をベンチに持ち込んでいた。
 
肩を痛めた投手にとって、冷たい向かい風は怖い。せっかく暖まった肩の筋肉をこわばらせ、微妙なコントロールを指先から奪ってしまう。
 
58年日本シリーズの失敗もそうだった。以来、江川は肩を冷やさないようアメリカ製の強力な塗り薬を擦り込み、頻繁にアンダーシャツを変えるようにしている。

その前年、セ・リーグでは優勝したが西武に日本シリーズで敗れたジャイアンツ。
59年のキャンプは、プロ入り6年目にして、江川個人としてはもっともハードな練習を課したキャンプだった。

58年11月中旬、巨人の投手陣は東大の体育研究室で筋力をはじめとした体の総チェックを受けた。
その際、西本が体脂肪11.7%だったのに、江川は21.8%も脂肪がついていた。
また、手足ともに速筋がすぐれている割に、遅筋が貧弱だということがわかった。すなわち、瞬発力はあるが、スタミナがなく疲れやすい筋肉だということ。
 
これを受けて、江川はオフの間、徹底した減量作戦をとり、キャンプでも走りに走った。
江川は気づいていないが、実はこれが王監督の巧みな作戦だった。どこか屈折したところのある江川には、頭ごなしに走れと命じても逆効果でしかない。しかし、本人がその必要性を理屈から入っていって納得すれば、黙っていてもその方向に走り出すタイプだった。トレーナーが同じことを説明するよりも、東大助教授という肩書が江川に対し強い説得力を持つことも、王はもちろん読んでいた。

江川は練習嫌いだという世間のイメージが強い。
しかしどの世界でもそうだが、マスコミやコーチたちが見ていると、故意に泥まみれになって練習する選手もいないわけではなく、江川は明らかにそういうタイプではなかったというのも世間の印象に影響しているのだろう。

高校時代のフォームと、不調だった58年に撮影したフォームを比べてみると明らかに違っていた。フィニッシュに入って、反動で左肘が肩の線と平行になっているのが作新時代の写真。58年の投球フォームは、だらりと左肘を下げたままフィニッシュに入っていた。左半身のひねりが十分に利いていない証拠だった。

 
59年の江川にとって8試合目の登板となる、5/24後楽園での阪神戦について。

この試合で、江川はストレート中心に組み立てていたピッチングを百八十度転換したようだった。両サイドぎりぎりをつくチェンジアップも、これまでの江川からは見られなかった。
 
かつてほどのスピードはないが、打者の手元で伸びているように見えた。右肩痛をかばってボールが高目に浮いていた、ついこの間までの江川はどこへ行ってしまったのか。力のピッチングから技のピッチングへのすばやい切り替えだった。
 
この試合最後の114球目は、覚えたばかりのチェンジアップだった。

今では、チェンジアップは珍しくもないが、当時は投げる投手も少なかった。
江川のチェンジアップが優れていたという話も聞かないから、決め球になるほどではなかったのだろう。

似たような話でいくと、この年の阪神との開幕戦、デーゲームが苦手な江川を王監督は開幕投手に指名したわけだが、その試合で江川はキャンプからひそかに練習していたフォークボールを少し使っていたという。

それまではストレートとカーブのキレでぐいぐい押していた江川の苦労が伺える。

この年、7/24のオールスターで8人連続三振の快投を見せた江川。その日は40球投げ、大石に対する39球目に145kmを出した。しかし、四日後の同じナゴヤ球場のマウンドでは、6回までに5点をとられKOされ、球速も最速139kmに過ぎなかった。

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続いてもう一人のエース、西本聖。

西本の入団時の月給は12万円。ツケで買った用具代や合宿費などをひかれて、給料袋には7,000円しか入っていなかった。
 
西本の練習はすさまじかった。合宿では夜、チームメイトが寝静まってから屋上に出て片足屈伸を左右合わせて300回やるのを日課にしていた。さらに指立て伏せを150回。ときには風呂場でも行なった。
 
その後、イースタンの防御率1位を手にしたが、このために無死一三塁からの投ゴロを二塁ではなくホームに投げもした。

ストイックなイメージが西本には常につきまとう。

 
西本と江川の対比。

56年、沢村賞選考委員の投票数は31票、西本に16票、江川13票、2票が白票だった。江川にまつわるダーティなイメージがその三票に反映したと考えられていた。一方、最優秀選手の選考では、江川を1位としたのは両リーグトップの146票。西本の1位票は55票だった。
 
57年末の契約更改。西本3120万円。江川は蜿々2時間粘ったすえ、球団側提示の4080円を蹴り、正力オーナーまで交渉の場に引っ張り出し、二回目の交渉で4440万円まで上げることに成功。最期の40万円の上積みにも2時間粘った。
58年末は江川はあっさり現状維持を呑んだ。西本は年明けまで粘り、4320万円でサイン。
 
西本はチームメイトから奇異な目で見られていた。あまりにひたむきすぎることが、遊び好きのチームメイトを煙たがらせ、敬遠される原因ともなっていた。
江川は、マスコミや世間が抱くダーティーなイメージとは裏腹に、チームメイトに奇妙な人気があった。58年の春、選手だけで開かれたミーティングで、選手会の副会長に選出されたのもその一例。江川もその結果を喜んでいた。

江川の”奇妙な人気”というのが気になる。

 

江川のプロでの目標は、十年間第一線で働いて、百勝以上マークすることにあった。三十五歳を区切りにして、将来の生活設計を考える。そのために入団一年目に契約金の一部に銀行ローンを足し、世田谷区奥沢に六十坪ほどの土地をまず買った。だが、都心の土地は意外に値上がり率が低いのに気づき、それならと郊外の横浜市緑区の土地に目をつけた。58年に緑区霧が丘に新居完成。住宅ローンは7年で払いきるように組んだ。返済しなければならない借金は1億円近い。

考え方が、普通のプロ野球選手とは違う。
仮にプロ野球以外の道に進んでいたとしても、周りとは違う考え方ができる(or してしまう)人間だったのだろう。

糸井重里さんと原辰徳監督の対談より

ほぼ日刊イトイ新聞で連載されていた、糸井氏と原監督の対談『プロ野球選手の孤独。』が面白い。

ほぼ日の野球関連の記事は、いつも野球愛に溢れていて、味がある。
かつ、勉強になる。

 
原監督が現役の頃と今との違いについて。

我々の時代と違うのは、まず、「ポストシーズン」という区切りが制度としてしっかりしているということですね。
我々のころは、1月7日、8日、というあたりから「自主トレ」という名のもとに、多摩川でふつうにチームとしての練習がはじまっていたんですよ。
 
それが、12月1日から翌年の1月いっぱいまでは、コーチは指導してはいけない、という規約が(※1988年に)できて、「ポストシーズン」というものが確立された。

 
これにより、その2ヶ月間は個人でトレーニングせざるをえなくなり、各選手がオフをどう過ごすか考えるようになったと。

それと同時に大きいのは、やはりアメリカ、メジャーリーグというものが非常に身近になった。
 
そこで、夢が底上げされたというか、自分のポテンシャルというものを非常に追求する選手が多くなったんですね。
それまでは、野球選手の最高到達点というのは、日本のプロ野球チームのなかでエース、あるいは四番バッターというような位置だったものが、もっともっと力をつけて、メジャーリーガーだとか、あるいは日本代表チームに入るというふうに、非常に、こう、世界が広がったわけです。

その後、二人の話はチームプレーと個人の技量の話に移るのだが、その中で糸井さんが面白い発言をしている。

解説者の方なんかがよく言う、「最低でも右打ちしてランナーを進める」。
その「最低でも」という言い方が、ぼくは常々疑問だったんですよ。

すると、原監督も即座に同意。

ぼくも疑問に思いますよ。
「なんで、ここで外野フライも打てないんだ」
とかね。
 
「最低でも、ここは右打ちで、ランナーを」。
そんなことできるんだったら、ヒット打てますよね。
ぼく、いっつもそう思う。
 
だから、野球って、なんていうか、難しい。簡単そうで、難しい。
 
難しいんだけど、簡単に見えるのが野球なんですよね。

いや~、自分もテレビ中継見ながら、最悪でもランナー進めろよ!って言ってるなと反省。
そんな簡単じゃないんだよと。

そして、この対談のタイトルにもなっているテーマへ話は続く。

たとえばバントとか、スクイズとか、あるいはエンドランとか、そういう、チームプレーとして動く戦術、これは成功するにせよ、失敗するにせよ、動いてもらわないと困る。
でも、それ以外は「任せた」っていう、ね。
 
やっぱりもう、個人なんですよ。
 
打席に立ったら、マウンドに立ったら、孤独です。
しかし、孤独のときに、どういうふうに、いいパフォーマンスができるか。
というのが、やっぱり、日頃の練習であり、日々、コーチが伝えようとする技術であり。

そういう意味で、最後はチームじゃなく個人の力量が大事だという話。

 
孤独という話から派生して、WBCをはじめとする、混成チームのメンバーが、最初、それぞれが孤独で、硬いという話へ。
その実感は、原監督が高校時代に全日本チームに選抜されアメリカに遠征にした時に感じたことが原点となっているという。

それまでの野球といえば、いつもチームメイトといっしょでした。
なにか、チームメイトといると、自分も強く感じる。
 
チームの中に自分が融合して、知らず知らずに自分自身を大きく感じることができていたわけです。
それがひとり、ぽんっと放り出されて、日本代表というチームに入ったときにすっごく孤独感がありました。
 
いままでのプレーを果たして自分ができるだろうか、という不安が出てくる。
しかし、一度チームに溶け込んで、みんなと汗を流し、自分がもといたチームと同じような気持ちになれると、今度は、日本代表という非常に高いステージでやれてるという部分で、逆にもっと自分の力が出るんですよね。

これは、非常にイメージしやすく納得できる話。

原監督は続ける。

だから、WBCの日本代表チームも、そういうふうな、ひとりひとりがチームに融合するような環境にすることが大事だと思うんです。

この発言だけで、チーム作りをどうこう言えたものじゃないだろうし、優勝した結果論の部分もあるだろうが、第二回WBCのチーム作りはうまくいっているように見えた。

 
話はWBCの話になり、原監督は勝ち負けについては特に考えなかったと言い切る。

「勝つ」という以外ない。
「負ける」なんていうのは、頭の片隅にもなかった

そう考えられるメンタリティが凄い。

しかし、その、「戦いざま」というものに対しては気をつかいました。

大会がスタートしたら、そのあとの筋書きがどうなるかというのは、これはもう、誰にもわからない。

思ったのは、「27のアウトを取る」こと。
あるいは、「27のアウトを取られる」こと。
というなかで、どうやって進めていくか。

その、アウトの取り方と、アウトの取られ方においてはやっぱり、きちんと理にかなった、率の高い方法で、進めていかなくてはならないと、そういうプレッシャーはすごくあった

糸井さんが、そのプレッシャーに打ち勝つ支えは何だったのかと尋ねると

高校、大学と、野球をずっとやってこられたこと。
そして、ジャイアンツという球団で、四番として、
まがりなりにも長い年数、戦うことができた。
それから思えば、こんなことは、
なんというかな、まだラクだと。

そのキツい経験の中で、特に、高校時代とジャイアンツの4番時代をあげている。

高校の3年間。その、やってる最中はね、「プロ野球選手になりたい」という、夢に向かってやってるから、なんてことはないんです。あとで思うと、あれが支えになっているという感じです。

あとは、ジャイアンツというチームの四番を打っていたという経験ですね。
 
キツい試合のあと、寝て、朝、目が覚めて、「また試合だ‥‥」と思う。
しかし、それは、ぼくが自分で「四番を打ちたい」と望んでやってきたことですから、それを思うと、やれるんです。しかし、あとで思うと、なかなかね(笑)。

高校時代の原さんは知らないが、ジャイアンツ四番時代の苦しんでいる原さんは記憶に鮮明。
それが礎になっているんだなぁ。

 
2012年のシーズン、原監督率いるジャイアンツは、交流戦、ペナントレース、クライマックスシリーズ、日本シリーズ、アジアシリーズ、すべてに優勝し、5冠を達成した。
難しいのは、その翌年。
この年を、どういうふうに気持ちを切り替えて、あるいは高いモチベーションを維持したままで戦っていくんですかと尋ねると。

いつもは
「昨年は昨年、今年は横一線からのスタートだ。 切り替えて行こうじゃないか」
というふうなことで、スタートしていくんです。
 
実際、前回(2009年)、前々回(2002年)と日本一になったあと、
そういうふうに言って切り替えていったんですが、連覇はできなかった。
 
相手はジャイアンツに勝つことをはっきりと目的にして向かってくるわけですから、優勝した翌年というのは、1試合1試合が、よりハードになってくるわけですね。
 
そういうことを十分にわかったうえで、しかし、それを跳ね返すんだと。
そのつもりで戦おう、と選手たちには言いました。
立ち向かってくる相手を跳ね返して、「連覇を意識しよう」と。

監督になった後も、毎年毎年成長していることが伺える。
敵からしたらホント嫌な相手だろう。

 
気持ちの切り替え、持ち方という意味で、例えば連敗中などチームの調子が良くない中、明日も試合をしなきゃいけない監督って、なにをどう思ってるんですかと問うと

プロ野球のペナントレースっていうのは、非常に長丁場ですし、その前の日のゲームで負けていても、もう毎日のように、試合、試合なわけです。
それも、ゼロ対ゼロの状態からのプレイボールで、いつもゼロからはじまるわけですよね。
そういう点では非常に新鮮ですよ。
 
でね、シーズンも終盤になって、やっぱり致命的な敗北をすることはあります。
「あ、今日負けたらペナントレースは終わるんだな」
というゲームを迎えることは、あります。
 
ほんとうに、そのシーズン、勝てなかったと、確定してしまう試合がくる。
そのときに、がっかりすればいい

どのスポーツでも当て嵌まることだが、負けを引きずらない、気持ちを切り替えられる人じゃないと、良いパフォーマンスは出し続けれられないってこと。

最後に、糸井さんから「勝ったときに学ぶことは少ない」というけれど、勝っても学ぶことっていうのは多いですよねと問われると

学ぶものが、すごくあります。
あるけれども、勝ってしまったうれしさで、その、学び取るべきものをすーっと通り過ぎるケースはありますね。
 
やっぱり、考えるんだったら、勝ったときも負けたときと同じように、考えたほうがいい。

おっしゃるとおりで。調子が良いときほど考えなくなるのは仕事でも同じ。

今回も学びの多い特集だった。
ほぼ日さんに感謝。

井端弘和のターニングポイント

エキサイトレビュー「頼りになる2番打者、井端弘和の強さの秘密」より。

2013年の開幕前の時点で、これまで出場した1611試合のうち、2番で出場した試合は1400試合を上まわるほどの、2番打者中の2番打者である井端。

井端を鍛え方次第で優れた2番打者になるかもしれないと目をかけたのが、当時の中日二軍監督だった仁村徹。自身も2番打者として職人技とも言える流し打ちを得意としていた仁村は、その右打ち、そして送りバントなど、自分の持っている2番打者としてのイロハを井端に伝えていったという。

その仁村との驚くエピソードがこれ。

井端がある試合でホームランを打ち、喜んでベンチに戻ったとき、ベンチ裏に井端を呼んで思いっきり殴ったのだ。

「必死になって身につけている2番打者としての技術をおざなりにするんじゃない。いま好き勝手にバットを振り回していたら、これまでやってきたことがすべて無駄になってしまうんだぞ。そのあげく、せいぜい控えの守備要員で終わってもいいのか」
仁村の拳にはそういう教えがこもっていたと井端は思ったという。

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逆に面白いのが、落合が2004年に監督に就任した時の話。
落合は井端に対し、「おれが右打ちしろというサインを出さない限り、右打ちはするな。チャンスのときは4番になったつもりでいけ」という指示を送ったという。

当時井端はキャリア7年目。既に実績を残していたからこそ右打ちの癖がなかなか抜けなかった。そして右方向へ打球を放つと、それがヒットであってもアウトであってもベンチに戻るたび、「なんであっちに打ったんだ?」と監督から問いつめられたという。

そして、ある試合で、井端はついにサードゴロで凡退する。
それに対し落合は、試合後記者達に対して

今日は井端のサードゴロが一番の収穫といえば、収穫だな。意味? ああ、君たちはわからなくて結構

とコメントしたのだ。

井端曰く

右打ちしなければならない条件のある場面では、そういう2番の仕事をしなければいけない。でも、それ以外の場面だったら、左へ引っ張ったほうがいいこともある。チャンスも膨らむし、点も入る。

あの打席ではセカンドゴロではなくサードゴロを打つことができた。

落合さんに教えられた打撃ができるようになっていたわけですね。こういうことを続けて行けば、自分もチームも、次の段階へ進んでいける

この記事は、スポーツライター赤坂英一氏の著作「2番打者論」のレビュー記事。この本が読みたい気持ちがうずかずにはいられない。