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豊田泰光氏のコラムが週刊ベースボールに続き日経でも終わってしまった

週刊ベースボールでは20年以上、日経でも15年以上コラムを連載していた。
複数メディアにこれだけ長い間にわたって連載しているということは、読者からの反応はもちろん、編集部との関係も良好だったのだろう。

ここ数年、氏のコラムには毎週目を通していた。
ご本人も自覚しているようだが、懐古的な内容や、年寄りの説教的な内容も多く、しばしば鬱陶しく感じることもあった。しかし、長い間読み続けていると、その「豊田節」とも言える論調に慣れてくる自分もいて、また、時に、確かに豊田さんが言う事にも一理ある、と思わせてくれる回も確かにあった。
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カープ時代の育ての親である水谷実雄が前田智徳について語る

THE PAGEの記事「”育ての親”水谷実雄氏、引退した前田智徳氏との思い出を語る」より。

1990年に前田がルーキーで入ってきた時から、上のランクのバッターだと感じたという。
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マイペースを貫き日米通算182勝をあげた石井一久

本日の日経朝刊のインタビュー記事より。

30代の初めのころには、マウンドで投げながら眠くなったことさえあったという、マイペースっぷり。

ここに布団を持ってきてくれれば熟睡できるな。そう感じながらマウンドに立っていた

しかも、その試合も本人の記憶では8回1失点ぐらいに抑えて勝ったという。

22年間のプロ生活で大切にしてきたものは「男気」よりも「安定感」。

チームのために自分を犠牲にしてでももう1球……。そう頑張って男気を出すとケガをしやすい。それだったら自分のペースを守って、チームのために1年間コンスタントに実力を発揮することの方が大事だと思う

一番の思い出はメジャーでのバリー・ボンズとの対戦だと言う。

自分の中で初めて生まれた夢が大リーグへの挑戦。その夢舞台で世界最高の打者に投げられた。日本では体感することができなかった

過去を振り返るのが好きではないというが、この話になると目を輝かす。

メジャーNo.1ストッパーと言っても過言ではない上原浩治

Nuber Webでの小川勝氏のコラム『上原浩治の制球力。~MLBで図抜けた「K/BB」「WHIP」~』より。

ここに、2013年米大リーグ セーブ・トップ10と上原浩治の投球成績比較表が載っているのだが、この内容を見れば、いかに上原が凄いかがよくわかる。

選手名(所属) 試合 回数 勝 敗 S 三振
――
四球
WHIP 防御率
(1)J・ジョンソン(オリオールズ) 74 70 1/3 3 8 50 3.11 1.28 2.94
     C・キンブレル(ブレーブス) 68 67 4 3 50 4.90 0.88 1.21
(3)G・ホランド(ロイヤルズ) 68 67 2 1 47 5.72 0.87 1.21
(4)M・リベラ(ヤンキース)    64 64 6 2 44 6.00 1.05 2.11
(5)J・ネイサン(レンジャーズ) 67 64 2/3 6 2 43 3.32 0.90 1.39
     R・ソリアーノ(ナショナルズ) 68 66 2/3 3 3 43 3.00 1.23 3.11
(7)A・リード(Wソックス) 68 71 1/3 5 4 40 3.13 1.11 3.79
(8)G・バルフォア(アスレチックス) 65 62 2/3 1 3 38 2.67 1.20 2.59
     S・ロモ(ジャイアンツ) 65 60 1/3 5 8 38 4.83 1.08 2.54
     A・チャップマン(レッズ) 68 63 2/3 4 5 38 3.86 1.04 2.54
(27)上原浩治(Rソックス) 73 74 1/3 4 1 21 11.22 0.57 1.09

リベラやホランド、ネイサンといった錚々たるクローザー連中を明らかに上回る数字を残しているのは誇らしい。ブラボー!

多くを語らない”前田”を演じる前田智徳

Number Webの中村計氏のコラムに前田に関するものがあった。
(『前田智徳の佇まいに高倉健を思う。「不器用」を演じるという愛され方。』)

前田は年に数度、契約更改のとき等、決まったタイミングでは、きちんと記者に対して自分の考えを披歴した。だがそれ以外、特にシーズン中は、記者に対し、打っても打たなくても「勘弁してください」と固く口を閉ざした。晩年は、記者たちもそれを知っているがゆえに、ほとんど近寄らなかった。

「勘弁してください」と話している姿は確かに記憶にある。
しかし、自分の考えを披歴することもあったのは知らなかった。

2006年4月号の『野球小僧』でインタビューの冒頭、今号の表紙に起用させてほしいと申し出た記者に対し、前田はこう返している。

「イメージどおり、悪がきでいってください。ええ、もう愛想悪い感じでいってください」

 二人のやりとりは、こう続く。

「そういうイメージで周囲が見ているように感じますか?」

「一応、ユニホームを着てる時はそういうイメージを作るつもりでやってきたんで」

「つもりっていうことは、多少は前田智徳を演じてる部分もあるということですか?」

「それはありますよ!」

寡黙な求道者然とした”前田”を自身も演じていたと。

広島の地方雑誌『Athlete』の2013年11月号では、元プロ野球、高森勇旗が寄せた記事の中にこんな一節が出てくる。

〈実は前田さんはしゃべり始めると止まらないし、ユーモアのセンスも抜群にある。とにかく、トークがめちゃくちゃ面白い。特にゴルフの話になると目を輝かせて話し、前田さんが「師匠」と仰ぐプロゴルファーの田中秀道さんが激励に訪れたときなどは、もの凄いテンションだった〉

トークが面白い前田って想像がつかないな。
以前何かの映像で凄いフォームで振っているゴルフシーンを見たことがあったが、結構ハマっていたとは知らなかった。

語らないからこそ、興味が湧く。
まさに”沈黙は金”を体言するような選手。

日航機墜落事故にこんなエピソードがあったとは

MSN産経WESTの『ナイン搭乗機が墜落、6連敗で首位陥落…号泣の日本一の背景』より。

当時サンスポの記者だった植村徹也氏のコラム。

私が阪神担当になったのは1984(昭和59)年の晩夏。当時は安藤統男監督が成績不振にもかかわらず、留任が一度は発表され、その後、不可解な辞任発表があったまさにその時でした。

次期監督を巡る関西のスポーツ紙の報道は過熱する一方でした。村山か? 吉田か? 歴史的に振り返るとそんなムードだったと思うでしょう。でも、当時は違いました。筆頭候補だった西本幸雄さん(阪急や近鉄を鍛え、優勝させた監督)が監督要請を辞退し、いつ村山さんに監督要請が来るのか? 注目はその一点でした。だから、当時、勤めていた夕刊紙では村山番を命じられ、芦屋・精道町にある自宅に張り付く日々でした。

安藤さんが辞める時も一悶着があったのか。

翌1985(昭和60)年、結果として2度目の監督に返り咲いた吉田義男監督の下、阪神は開幕ダッシュに成功しました。波に乗ったのは4月16日から本拠地・甲子園球場で行われた巨人3連戦でした。第1戦、佐野の打ち上げた中堅前の打球を巨人・河埜が落球し、そこから怒涛の攻撃で10-2の大勝。そして、続く17日、今や伝説になったバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発。翌18日の試合にも勝ち、巨人戦に3連勝して、世の中に猛虎フィーバーが巻き起こりました。

てっきり5月だと記憶していたが、伝説のバックスクリーン3連発は4月だった。
河埜のエラーが未だに語り継がれてしまうのは不運なのか、幸運なのか。

 
そして、阪神21年ぶりのリーグ優勝が見え始めた8月12日、月曜日。
日航機が墜落した。

阪神はその前日、福岡の平和台球場で試合を行い、当日午後の便で福岡国際空港から羽田空港に移動している。しかも阪神が乗ったJAL366便は、その後、JAL123便として伊丹空港に向けて飛び立った機体だった。

けたたましい電話のベル。当時の会社のデスクでした。
「どうも中埜肇球団社長が日航機に乗っていたようや。まだ安否はわからへん」

後楽園球場で巨人戦を迎える阪神は沈痛なムードに包まれていました。まだ生死が判明していませんでしたが、吉田監督は気丈に采配をふるっていましたね。でも、チームに与えた動揺はすさまじく、巨人戦3連敗を含む6連敗を喫するのです。首位の座からも陥落してしまいました。

 
事故4日後に、球団社長の遺体が家族により確認された。

吉田監督らナインは「社長のためにみんなでがんばろう」と奮い立ちました。8月17日の広島戦では、広島市民球場で両軍による黙祷が行われ、スコアボード上の両球団旗を半旗にして試合が行われました。

 
そして10月16日、神宮球場でのヤクルト戦でリーグ優勝が決まった。

ネット裏の記者席から吉田監督の胴上げを見ました。慣れていないから下手くそな胴上げでしたが、だからこそ味がありました。球場を引き揚げていく監督、コーチ、選手たちは声を出して泣いていました。その試合のウイニングボールは直後に、宝塚仁川の社長宅に吉田監督らナインの手で届けられました。日が沈みゆく夕暮れ、玄関先で取材待ちしていると、家の中から男たちの泣き声が漏れていました。激しい泣き声でした。嗚咽でした…。

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FA移籍に伴う人的補償の歴史

NEWSポストセブン『FA移籍の「人的補償」の歴史 成功例は福地、赤松、工藤など』より。

まず、前提としてFAでの”人的補償”について。
各球団の、外国人選手を除く選手を年俸ランクで、1~3位をAランク、4~10位をBランク、11位以下をCランクとランク付けした場合、ランクがAもしくはBの選手がFA移籍する場合、選手が流出する球団は人的補償を要求できるというルールがある。

そして、人的補償対象として指名できないのは以下の3つ。

・プロテクトした28名の選手。
・FA権取得により日本人扱いになった選手を含む外国人選手。
・直近のドラフトで獲得した新人選手。

 
では、実際に人的補償として移籍した選手の話へ。

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1993年オフにFA制度がスタートした日本球界では、これまで人的補償で15人が移籍している。1990年代は、川邉忠義が巨人から日本ハムへ移ったのみだったが、2000年代に入り、その数は急増した。

ちなみに、川邉は河野博文の人的補償だった。

2008年は人的補償の当たり年だった。西武へFAした石井一久の代わりに、ヤクルトへ入団した福地寿樹は打率3割2分で打撃ベストテン6位に入り、盗塁王を獲得。2012年に引退するまで、毎年2ケタ盗塁を続け、ヤクルトに欠かせない選手となった。今年からはコーチに就任。福地にとって、人的補償が野球人生の道を拓いたといえるだろう。

阪神へFAした新井貴浩の代わりに、広島へ入団した赤松真人は前年わずか28試合だった出場数が125試合まで増加。新天地で活路を見出し、翌年は初の規定打席に到達。2010年には、フェンスによじ登って、ホームラン性の当たりをキャッチするなど、すっかり広島の看板選手となった。

また、中日へFAした和田一浩の代わりに、西武へ入団した岡本真也は47試合にリリーフ登板し、日本一に貢献。中継ぎとして、貴重な役割を担った。

FA選手よりも人的補償選手が好成績を残す場合もある。2006年、巨人は中日から野口茂樹を獲得。かつてのMVP投手は期待を寄せられたものの、わずか1試合の登板に終わる。野口は2008年限りで巨人を戦力外通告に。代わりに、中日へ移った小田幸平は、谷繁に次ぐ貴重な2番手捕手として、未だに現役生活を続けている。

野口のケースは余りに特殊だから参考にならないだろう。
小田も捕手というポジションの特殊性がある。

2007年、巨人は横浜から門倉健を獲得。2年連続2ケタ勝利の門倉は開幕2戦目に先発するなどローテーションの一角として期待されたが、なかなか勝てず、1勝5敗でシーズンを終えた。いっぽうで、門倉の代わりに横浜へ移った工藤公康は先発として7勝を挙げ、チームの4位浮上に貢献した。

前年の工藤は推定年俸2億9000万円ながら3勝に終わった。
一方門倉は、前年10勝を上げ、FA移籍して2年契約で総額2億円プラス出来高払い。
結果論かもしれないが、巨人の戦略が誤っていたとも言いにくいところ。

 
いずれにしても、FAだろうとトレードだろうと補償要員だろうと、その境遇を前向きに捉えていける人でないと、生き残っていけない世界であることは間違いない。

2013年度ベストナイン決定

11/21に今年度のベストナインが決定した。

楽天の田中が満票(有効投票総数228票)で受賞したことで話題になっている。

ポジションごとに選出される野手に比べてライバルが多く票が割れやすい投手部門ではなかなか満票にはならず、史上3人目の快挙となった。

その残りの2人というのが、1958年の稲尾(西鉄)と、1989年の阿波野(近鉄)。
稲尾はともかくとして、ここに阿波野が入っているが驚きでもあり、嬉しくもある。

ちなみに、野手も含めると、パの満票は2003年の城島、井口(ともにダイエー)以来10年ぶり。

家族からの愛が支えとなりWBC2次ラウンドMVPに 井端弘和

女性自身『中日・井端 眼病克服に「私の角膜移植を…」夫人の献身愛』より。

巨人への移籍が報じられている井端。
今年3月の第三回WBCでは、期待を上回る大活躍で2次ラウンドのMVPに輝いた。
さぞや浮き沈みの激しい1年間だっただろう。

以前の投稿でも触れたが、井端は眼に問題を抱えていた。
この記事は、妻・明子さんへのインタビュー記事ではあるが、その”眼”についての苦労にも触れられている。

井端が最初に目の不調を訴えたのは2009年の始めにグアムに自主トレに行ったときだった。2008年に視力矯正手術を受けているからその影響もあったのだろう。

電話で『目が腫れて痛いんだよね』と言うんです。帰ってきて、主治医に診てもらうと”ヘルペス”という診断でした。

診断は『上皮角膜ヘルペス』というウイルス性の目の炎症。打席ではボールがぼやけて見え、守備では飛んできた打球を感覚だけで取らなければならない状態だったという。

凄いことに、この年(2009年)は主に1番打者として全試合に出場し、4年ぶりに打率3割を達成している。しかし翌年2010年は、53試合しか出場できなかった。
2011年は戦列に復帰し104試合に出場するも、打率は過去最低の2割3分に落ちた。

家にいてもテレビも見られず、ただ痛みをこらえていたという感じで、いちばん辛かった時期です。そのシーズンに、主人は引退を考えました。朝4時頃まで話して、手を尽くして治療してきても回復の兆しがなくて、『いますぐやめたい。明日チームに報告して球団に言う』って。最後は『治る手はないか私が全部調べるから、それでもダメなら』と二人で納得したんです。

明子さんは目の専門医を調べ、評判の病院には自ら足を運んだ。メガネ屋さんで特注コンタクトの相談もした。
さらに、

私は視力がいいので、網膜とか角膜とかを主人に移植できないかと思って、病院の先生に『移植はできないんですか』と相談しました。主人は笑いながら聞いていましたが、私の目が150キロの球を打つのに役立てば……と思って。実際には『移植は無理です』と先生に言われてしまいましたが。

献身的な愛情を受け、眼の状態も快方に向かい、2012年のシーズン、ようやく症状が落ち着いた。

そして、WBC。

WBCでは明子さんは日本代表の試合をすべてスタンドで観戦していた。
さらに、元気づけようと、日に日に成長する子供の姿などを動画に撮って井端に送っていたという。

家族からの愛情が井端を救ったと言っても過言ではないだろう。
新しい環境でも、彼にしか出せない味を出して活躍してほしいものだ。

昭和43年巨人ドラフト1位 島野修の生き方

NEWSポストセブン『巨人ドラ1選手が他球団マスコットの「中の人」になった経緯』より。

島野氏の名前は記憶の片隅にあるかなという程度だった。

「黄金のドラフト」といわれた1968年。
山本浩二(広島)、星野仙一(中日)、田淵幸一(阪神)、山田久志(阪急)といった錚々たるメンバーが連なる中、巨人が1位指名したのが島野修。

神奈川県武相高校出身。高校時代は2年連続甲子園に出場。
県予選ではノーヒットノーラン、18奪三振を記録した右腕投手。

当時巨人は田淵を狙っていたが阪神に奪われ、島野を大洋に持って行かれるならばと指名したのだった。球界では驚きの指名で、巨人入りを希望していた星野が「島と星の間違いじゃないか」と言ったというエピソードは語り草である。

さすが星野さん、当時から瞬発力のある言葉を残している。

ドラフト1位ということで周囲からいつも見られているプレッシャーがあった。1年目に1勝を上げると、もっと良くなるとフォーム改造を指示され、それが原因で肩を故障。(島野)

そのまま鳴かず飛ばずで、24試合で1勝4敗。1976年に阪急に移籍。
阪急では、同期の山田が既に90勝を上げ、大エースに成長していた。阪急でも結果を残せず1978年に引退。

どの世界でも、自分を持つ強さが求められる。

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山田には同期のよしみでよく食事に連れて行ってもらっていた。引退後、芦屋でスナックを開業した時も、仲間は店に来てくれた。だが島野は、今ひとつ肩身が狭かったという。「俺は球場では何も残せていない」という後ろめたさがあった。

そんな時、阪急がマスコット「ブレービー」の役者を募集していることを知った。表に立てずに終わった自分が裏に回ろうと心に決めて、すぐに応募した。

夏の試合、ぬいぐるみの中は40度を軽く超える。汗と泥にまみれ、一生懸命パフォーマンスをしていたが、西宮球場には閑古鳥が鳴いていた。だがマスコットの人気はあり、夏休みに観戦に来ていた親子連れが、「パパ、明日もブレービーを見に連れて行って」と言ってくれたことが何よりも嬉しかった。

阪急が身売りをしてオリックスになり、マスコットが「ネッピー」に変わってからも職を続けた。

経営しているスナックも順調なのに、なぜぬいぐるみに入ることにしたのかと記者が問うと、

同期のドラフト1位はすごい連中ばかり。それができなかった自分はこれで生きるしかないんだ。わからないだろうけどね。

との答え。

マスコットを天職と言っていた島野。イチロー人気で、グリーンスタジアム神戸が満員になった時は「少し恩返しできたね」と。

プロ野球はこういう裏方が支えている。