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カテゴリー : 本人コラム 20件あります

選手に落ち度がないケースでもエラー扱いとなってしまうプレー

先日の田口壮氏のコラムのテーマが、ダルビッシュが完全試合を逃した試合でのアンパイアの「情」についてだった。
それ自体は、そういうこともあるかなと驚かなかったが、初めて知ったのが、選手に落ち度がないケースでもエラー扱いとなってしまうプレーがあるということ。

例として挙げられていたのが、以下のケース。

外野から本塁に返球する場合に起きやすいのが、「ストライク」の返球なのに、本塁に突入した走者に捕手が吹っ飛ばされていた、というケースです。この場合、打者走者の余分な進塁などについて、返球した外野手に失策が記録されます。

え?! って話である。

評価には影響しないだろうが、記録には残るから選手としては何か釈然としないだろう。

田口氏が書いているとおり、不可抗力で起きたことに関しては「誰のせいでもない」という記録があってもいいのではなかろうか。

掛布と安藤統男監督とのちょっとしたエピソード

「THE PAGE」で掛布さんが連載記事を書いている。
その中で、先日の中村紀洋の球団とのトラブルに関して苦言を呈しているのだが、それに関連して掛布自身のエピソードが紹介されていた。

1984年に神宮でこんな経験をしたことがある。1点のビハインドで迎えた9回二死一塁で4番の私に打席が回ってきた。一塁走者は、現在、スカウトの北村照文だ。快足の北村には、「行ければ行っていい」のいわゆる「グリーンライト」のサインが出ていたが、私は「4番バッターのケースで走ることはないだろう」と考えていた。しかし、北村は盗塁を仕掛けて失敗。私は、バットを振らないままゲームセット。腹立たしさの前に「え? 何が起きた?」と呆然とした気分になったことを覚えている。

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当時の阪神の監督は安藤統男氏。

試合が終わってホテルに帰ると、安藤監督が、話があるという。「私が『待て、走るな』のサインを北村に出しておくべきだった。私のミスだ」。安藤監督に、そう説明をしてもらって納得した。

4番バッターとしてのプライドが保たれたのだろう。それに不思議はない。

それよりも、北村は確かに俊足のランナーだと思うが、この年のホームラン王にも輝く掛布の打席でもグリーンライトのサインが出ていたのが驚き。

北村の生涯盗塁数は114個で成功率.687。
この年は9盗塁。しかし7つ盗塁死があるので成功率.562と微妙な年だったのだろう。

日米のキャンプでの練習の違い

日経電子版での田口壮氏のコラム第二回。
今回はMLBのキャンプについて。

MLBでは、レギュラーシーズンで162試合、ポストシーズンを入れると180試合前後の試合が組まれている。
日本と比べると過密日程で、仮に雨でも、試合ができるようになるまで何時間も待ち、流れたら翌日ダブルヘッダーを組んでゲームをこなしていく。

その分、キャンプは緩い。
当然、田口も1年目のキャンプではその緩さに驚いたという。

2002年、オリックスからカージナルスに移籍した私も練習が少ないのには面くらいました。いわゆる「全体練習」が短いのはわかっていましたので、あとは投球マシンを相手に打ち込もうと考えていたら、これが大誤算。チームでたった1台しかないマシンが壊れていて使えなかったのです。

壊れているのもどうかと思うが、何より1台しかマシンがないというのも驚き。

オリックス時代は全体練習が終わったあとに、2時間、3時間とマシン相手にカンカン打ち込むのが普通でしたから、不安でした。

振り返ってみると、キャンプから飛ばしていたら、とてもじゃないけれどもたなかったなあ、とわかったのです。

その後、田口はフィリーズやカブスへ移籍しているが、どのチームでもキャンプ中にマシン相手に打ち込むようなことはなかったとのこと。

シーズン中には練習の効率化のためか、ちゃんとマシンを用意してくれるのですが、キャンプではまず使いません。唯一のマシンが故障していたカージナルスで、誰一人不満の声をあげなかった理由もよくわかりました。

マシンを相手に体力を使うくらいなら、ほかの練習をする。どうしても打ち込みたければ、コーチや同僚に「ちょっと投げてよ」と一声かけて、投げてもらう。それがメジャー式なのでした。

「ちょっとくらいハードな練習で倒れているようではしょせんそこまでの選手」というのが、日本の伝統的な考え方だとすると、メジャーでは「そんなに長時間練習しなくてはならないような選手はしょせんそこまでの選手だ」となるわけです。

そこまで日米の哲学には差があるということか。

田口壮のコラムが日経電子版でスタート

田口壮のコラム「ポストゲームショー」が日経Web刊で2/25よりスタートした。隔週で連載するらしい。

TVで時々見るに、彼の話は視聴者目線で、自分の実績を過度にアピールすることもなく聞きやすいので、この連載も楽しみだ。

初回は 『巨人、西武、広島…キャンプに見る伝統の力』。

各球団ごとに歴史や伝統があり、例えばオリックスには「外野手の伝統」があったという。

福本豊さん、簑田浩二さん、山森雅文さん、本西厚博さん……。前身の阪急時代から、名外野手を送り出してきたオリックスでは「外野守備だけはどこにも負けてはいけないのだ」という意地のようなものが受け継がれてきました。

その伝統を守るための練習は厳しく、一通りの練習をこなしたあとに千本ノックとも言うべき厳しい外野ノックが待っていた。
田口とイチローの2人を相手にノックをしてくれるのは小林晋哉コーチだ。

田口氏は各チームのキャンプを回って印象に残った点をあげている。

巨人は、二軍選手の礼儀正しさ。原監督に伝えると、一言「ジャイアンツだからな」と言ったのこと。

昔から投手王国だった西武はブルペンに特徴がある。他の球団ではスペースの関係もあり、ブルペンは投球と報道陣のための必要最低限の広さになっているが、西武では長めの距離で投げようと思えば投げられるだけの広いスペースをとっている。本来の距離より長い距離から投げることで、質のよい球が投げられるよう練習するニーズ等に応える作りにしているのだ。
また、捕手に立ってもらったままで投げる「立ち投げ」では、各投手が高めの直球を意識して投げている様子が伺えたという。

広島は、昔から猛練習で有名。

野村謙二郎監督の現役時代は午前中のメニューがランニングやダッシュだけという陸上部みたいな練習で、へとへとになってからやっとボールやバットを握るという具合だったと言います。

現在はさすがにそこまでの練習はしておらず、野村監督に聞くと「昔みたいにきつくしたら選手がついて来ないよ」とのこと。

ただ、その当事の名残は残っており、全体練習の後、石井琢朗コーチによる内野ノックでは、横に走ったり飛び込んで捕ったりするゴロは打たず、野手の正面か、逸れても2、3歩動けば捕れるところにゆるゆるとしたゴロを延々と打ち続け、腰を下ろして確実にボールをグラブに収める基本を徹底的に身体に覚えこませていたという。

 
<<追記>>
本文中に登場した小林晋哉コーチだが、ちょうどタイミング良く、ソチ五輪フィギュアスケートの羽生の隣で仰天顔だった女性が、奥さんだということで、話題になっていた。
こちらのZAKZAKの記事 『DeNA小林晋哉スカウトを直撃 妻は羽生の隣で仰天顔だった日本スケート連盟強化部長』 で、イチロー相手に3時間に及ぶノックを浴びせ、仰木監督が「いい加減にしておけ」とストップをかけたこともあるエピソードが紹介されていた。
今はDeNAでスカウトをやっているんだ。

下柳剛が語る島野育夫氏と田中将大

今年の1月からスポニチアネックスで連載されている下柳によるコラムが、味わいがあってなかなか良い。

例えば、2/10の「本邦初公開 下柳氏が楽天入団時に背番号「91」選んだ理由」。

下柳は最後に所属していた楽天で背番号として91を選んだ。
それは阪神時代に世話になった島野育夫氏にちなんでということだ。
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豊田泰光氏のコラムが週刊ベースボールに続き日経でも終わってしまった

週刊ベースボールでは20年以上、日経でも15年以上コラムを連載していた。
複数メディアにこれだけ長い間にわたって連載しているということは、読者からの反応はもちろん、編集部との関係も良好だったのだろう。

ここ数年、氏のコラムには毎週目を通していた。
ご本人も自覚しているようだが、懐古的な内容や、年寄りの説教的な内容も多く、しばしば鬱陶しく感じることもあった。しかし、長い間読み続けていると、その「豊田節」とも言える論調に慣れてくる自分もいて、また、時に、確かに豊田さんが言う事にも一理ある、と思わせてくれる回も確かにあった。
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「弱い自分と向き合う」工藤公康

20120828の日本経済新聞のスポーツ欄コラムより。

日本シリーズのMVPを2年連続で獲得。プロ6年目当時の私は”てんぐ”だった。ネオン街に繰り出し、ボトル1本以上あけての日帰りはザラ。練習で汗をかきアルコールを抜く日々だった。

これで成績を残せるはずがない。89年は4勝(8敗)に終わった。特に肝臓の痛みがひどく、医者からは「このままだと死ぬよ」とまで言われた。

「本当に選手生命が終わってしまう」。ビール、ブランデーなど家中の酒を捨てて家にこもったが、体調はすぐに戻らない。

スポーツ医学に詳しい筑波大の白木仁教授を訪ね、練習法を根本から教えてもらった。だが専門家の言葉が理解できない。「単にうなずいているだけなら指導を受ける意味がない」と思い、トレーニング関連の本を買いあさった。筋肉の名前や使い方を覚え、先生と同じレベルで会話しようと必死に勉強した。

「トレーニングは3年先、5年先を見据えて」が白木先生の指導。今の練習成果が3ヶ月後に表れることはない。継続にこそ意味がある。やみくもに体を動かすのでなく、「何のためのトレーニングか」の理論を学ぶことが重要だと知った。

変化は着実に訪れた。91年は16勝し、ようやく復活を果たせた。

飲みに行くのをやめ、バランス良く食事を取り最低でも10時間は寝た。規則正しい生活習慣がいかに大切かを思い知った。トレーニングはきついという次元を超え肉体の限界への挑戦となった。

若いころのどん底がなかったら、弱い自分と正面から向き合えたろうか。

29年間のプロ野球人生は悩みと苦しみの連続だったが、私にはそれが「財産」だ。今でも学び、知り、行動することの大切さは忘れていない。

「向上心 米野球に学ぶ」工藤公康

20120515の日本経済新聞のスポーツ欄コラムより。

プロ3年目、西武時代の1984年の夏に広岡達郎監督から米国行きを命じられた。向かったのはカリフォルニアにある1A、サンノゼ・ビーズ。青山道雄さんら8人ほどの武者修行だった。

私は抑えを任された。と同時にそれまでストッパー役を務めていた投手の姿がなくなった。ひとつの”場所”にはまる人が現れれば今までいた人はもういらなくなる。「育てる」なんて発想はなく、「使い捨て」といっていい環境に置かれる。選手は試合でひたすら結果を残すことに注力する。

日本での私はそのころ、朝から晩まで野球漬けの生活を送っていた。毎日20キロは走り、200球を超える投球練習をしていた。それでも「このまま終わっていくんだろうな」という不安がぬぐえなかった。日本一厳しい練習をしても足が速くなるわけではなく、スピードボールが投げられたり、コントロールが良くなったりしたわけでもない。ただ毎日の練習や試合をこなしているだけの選手だった。

今思えば、プロの練習をしていればいつか良くなるという甘い考えだった。他人にやらされるのではなく、自分から立ち向かっていかなくてはいけないのに「どうせオレなんか」とあきらめが先に立っていたのだ。

野球の本場で学んだのは、自分を高めようとする意志だった。

球にスピードがないのなら、筋力などパワーをつければいい。コントロールが悪いなら、良くするために何が必要かを考えて、まず動くことだ。とにかくやること。心の持ちようひとつで、人は変わることができる。

「真の”プロ”への道」工藤公康

20120410の日本経済新聞のスポーツ欄コラムより。

1995年のダイエーへの移籍直後は驚きの連続だった。西武では全員が「勝つために何をすればいいか」を自覚し実戦を想定して練習したが、ダイエーではキャンプから走らないし動かない。シーズン中、エラーした選手が照れ笑いでベンチに帰ってきたこともあった。思わず怒鳴ったが、当時、「勝つことの難しさ」を理屈で訴えても理解されなかったと思う。

当時、王監督は高卒で95年入団の城島健司を一人前の捕手にしたいという思いがあった。だが、若い彼はただミーティングで言われた通りにサインを出しているだけ。リードとはいえず、捕手としての意思もない。

これではまずいと思った。自分が配球まで考えないと城島にアドバイスすらできない。私は西武時代からのすべてのビデオを引っ張り出しては、毎日見直した。研究したのは打者の見逃し方、ファウルの打ち方、右打者なら右方向への打ち方など。実際の試合で試しながら失敗と成功を繰り返すうち、打者の狙い球を「感じる」ことができるようになっていった。

すべての打者に対してどんな球を待っているのか、どの方向に打ちたいのかがわかったのが99年だった。白球を放す瞬間、自分と相手のタイミングが合っていると感じてとっさにボール球にすることもできた。

城島のサインにわざと首を振らなくなったのもこの年。サインに意思を持たせ、打者の狙いを自ら感じようとしない限り、彼の成長はないと思ったのだ。

城島は見事に期待に応え、チームは優勝という美酒に酔った。

糸井重里とスポーツ記者赤坂英一の対談が面白すぎる

ほぼ日刊イトイ新聞で8回にわたって連載されていた、糸井さんとスポーツ記者である赤坂氏の対談『こういうやつが、いたんだよ。』。

赤坂氏の著作『キャッチャーという人生』にまつわる話が多いが、とにかく面白くて、この本もつい購入してしまった。

この本を読んでの糸井さんのキャッチャーへの印象。

村田選手って、けっこうしゃべるんですよね。
ちょっと不器用なイメージがあるから、寡黙な感じがしないでもないけど、ちゃんとことばにできる人、というか。

そんなに言葉にできる人、なかなかいないですよね。
語ってる思い出話も全部的確だし。

キャッチャーってとにかく、記憶の塊ですよね。

キャッチャーというのは、「ことばの人生」なのかもしれないですね。

続いて、巨人が西武に4連敗した1990年の日本シリーズについて、今はいずれも監督となった原辰徳、渡辺久信に訊いた時の話。

巨人では、西武の情報をいっぱい与えられたんですって。
詰め込まれすぎた結果、かえって萎縮しちゃった。
でも、西武ではそうじゃなくて、いろんなデータがそろっているなかで首脳陣が取捨選択して、「これだけを覚えればいい」という情報だけを伝えたそうなんです。

でも、いまはまったく逆で、全部詰め込めばいいんですって。
なぜかというと、いまの選手は小さいころから携帯電話があったりパソコンがあったりと、情報の洪水の中で育ってる。
要するに、昔の選手たちとは情報処理能力がぜんぜん違うわけです。
だから、思ったこととか感じたこととか全部、言ってやりゃいいんだと。

さらに、西武の打撃コーチのデーブ曰く

俺たちだったら、一度にあんなにいろんなこと言われたら大混乱したと思うんだけど、片岡とか栗山なんかは平気で全部吸収しちゃう

続いて、赤坂氏が敬愛する藤田元司について。

村田にインタビューしてるとね、藤田さんのことをしゃべりだすと止まらなくなるんですよ。
で、内部の話ですから、おおっぴらにしゃべっちゃいけない話もあるんです。
たとえば、藤田さんがどんなふうに自分をフォローしてくれたか、とかね。
藤田さんが選手に謝っていた話とかね。
話しはじめるとあふれちゃうから、必ず「ちょっと止めてくれる?」って録音を止めさせるんですよ。
こっちとしては、総合的にとってもいい話だからそれは書いたほうがいいんじゃないかって思うんだけど、「それは書いたらあかん」の一点張りで。

藤田さんにまつわるそういう話は、たとえば水野に聞いても出てくるんですけど、やっぱり「書いてくれるな」って言うんですよ。

それは、尊敬ですよね、藤田さんへの。

それほど尊敬されている人物だとは知らなかった。

糸井さんも藤田氏とは親交が深かったとのこと。

「人間は間違うんだから、年上とか年下とか関係なくちゃんと謝らなきゃダメだ」って話は藤田さんからうかがったことがあります

水野が語った話で特に印象深い藤田氏の話。

1990年の開幕戦。
篠塚さんがポール際に打ったホームランがファールかどうかでもめた試合です。

あれで同点になって、けっきょく延長12回まで行くんですけど、あの試合の先発は斎藤。
で、7回から延長12回まで、ひとりで投げてたのが、じつは水野なんですよ。

誰も覚えてないでしょう?

でも、藤田さんは見てるんです。
開幕戦の延長を抑えてくれた水野を見ていて、覚えていてくれるわけですよ。
そういう使われかたをしてもくさらず、ずっと投げているから彼は一軍から落とされない。

水野曰く

藤田さんと過ごした3年間、あれがあるとないとでは、
ぜんぜん違った野球人生になっただろう

このように藤田氏の影響は今の首脳陣世代に強く残っていると。
そして、特に原に藤田の影響を強く感じると二人は言う。

糸井さん

たとえば、試合後のコメントで、若い選手にわざとキツい言い方をして、ネジをぎゅーっと締めるところとか。
かと思うと、成績としてはよくなくても、「ああいうことでいいと思います」
結果じゃない部分を評価したりとか。

赤坂さん

あとよくやるのが、二軍から上げたばかりの若手をすぐに使う。
で、うまく活躍したときに、ほめたいと思うんですよ、ほんとは。
だけど、それを押し殺して、
「まあ、今日のところは、日々の彼の練習がいい結果につながった、というところまでしかコメントできませんね、監督という立場では」という感じで。

記者の立場としてはね、「またつまんないこと言ってる」って思うんですけど、よく考えたら、藤田さんも、なんにも言わない人でしたよ。
斎藤をあれだけの大投手に育て、ときに槙原を抑えに回し、桑田を再生し、っていう中で、「俺がああしてやったから」とか「彼らは立派だ」とか、なんにも言ってないんですよね。

藤田さんがなにか気の利いたコメントを残したとかね、名言を残したとか、ちっとも印象にないんです。

話は谷繁の話題に。上記の著作の中に登場する選手の中で図抜けた才能を持っていたと。

「持ってる」人ですよね。
たとえば村田、大久保っていうのは、逆にいうと、なにも持ってない人たちで、そこから、ないところを埋めて、上がっていった人たち。

これに対して、糸井さんが好いことを言っている。

そういう、天性のものを持った人と、そうじゃない人が混ざって存在しているのがプロ野球という世界。

そのへんのおもしろさというのは、お客さんも自然に感じるんでしょうね。
野球に限らず、その不均一なところがスポーツのおもしろさじゃないかなぁ。
いや、スポーツだけじゃなくて、どの社会もそうなのかもしれない。

赤坂氏の次の著書である二軍監督の話へ。
まずは小ネタで、巨人の岡崎。どうやら喧嘩が強いと有名なんだとか。

なんだか有名なんですよね。
でも、そうは見えないじゃないですか。
でも、当時、寮に入った若手は必ずその強さを垣間見た、という。

そして最後に、2008年の西武vs巨人の日本シリーズでの渡辺監督の采配に関して。

去年の日本シリーズの第7戦。
片岡がデッドボールで出て、走って、送って、中島の内野ゴロで同点に追いついた場面がありましたよね。

デーブと会ったとき、あの場面についての話になったんです。
渡辺監督や片岡、栗山、中島たちと、どんな話をしていたのかと。

巨人のマウンドにいたのはあのシリーズで絶好調だった越智で、正直、片岡は手も足も出ない。
そこでデーブと渡辺久信は「当たってください。当たってでも出てください」と選手たちに言ってたらしい。
そしたらインコースに来て、片岡はヒジに来たところを後ろによけずにゴーンと当たった。で、その瞬間に、「よっしゃ!」ってガッツポーズ。

で、つぎは2番の栗山。
回も詰まってるし、セオリーなら、そこで送りバントだと思うんです。
でも、デーブはこう言うんです。
「監督が送りバントのサイン、出さないんですよね」って。
かといって「打て」のサインも「走れ」のサインも出さない。
どうしたかというと、片岡が走るのを待ったんです。

あの年の西武って、「好きなときに走れ」っていう野球なんですよ。
攻守全体にわたってそういう感じで、チームバッティングで右打ちさせたりもしない。
「思い切って引っ張れ!」っていう野球でそれまで勝ってきたチームなんです。
だから、片岡に「任せちゃおう」と。
で、実際、片岡は初球に盗塁決めちゃうんです。

ただ、それは、監督が動かしたわけじゃないんです。
「どうせ走るから、任せちゃおう。ほら、走った」という流れなんですね。
あとで渡辺監督がデーブに言ったのは、
「いやぁ、送りバントも当然考えたけど、片岡のガッツポーズを観た途端、おれの頭の中からそのサインが消えたんだよ」と。

そして、バッターは3番の中島ですが、じつはあの時点で手首と脇腹を痛めてて、外野フライも期待しづらい状態だった。
だからもう、片岡の足に期待して、内野ゴロ打たせて本塁に突っ込ませるしかない。
最悪ライナーでゲッツー、ホームゲッツーもある。空振りもある。
でも、ここはサインを出して中島が叩きつけるのに期待して、片岡を走らせる。

ふつうに考えたら、リスクが高すぎると思いますよ。
でも、渡辺監督はそういうことをやっちゃえる監督なんですよね。

いや~内容が濃い対談、本当に楽しませてもらった。