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糸井重里さんと原辰徳監督の対談より

ほぼ日刊イトイ新聞で連載されていた、糸井氏と原監督の対談『プロ野球選手の孤独。』が面白い。

ほぼ日の野球関連の記事は、いつも野球愛に溢れていて、味がある。
かつ、勉強になる。

 
原監督が現役の頃と今との違いについて。

我々の時代と違うのは、まず、「ポストシーズン」という区切りが制度としてしっかりしているということですね。
我々のころは、1月7日、8日、というあたりから「自主トレ」という名のもとに、多摩川でふつうにチームとしての練習がはじまっていたんですよ。
 
それが、12月1日から翌年の1月いっぱいまでは、コーチは指導してはいけない、という規約が(※1988年に)できて、「ポストシーズン」というものが確立された。

 
これにより、その2ヶ月間は個人でトレーニングせざるをえなくなり、各選手がオフをどう過ごすか考えるようになったと。

それと同時に大きいのは、やはりアメリカ、メジャーリーグというものが非常に身近になった。
 
そこで、夢が底上げされたというか、自分のポテンシャルというものを非常に追求する選手が多くなったんですね。
それまでは、野球選手の最高到達点というのは、日本のプロ野球チームのなかでエース、あるいは四番バッターというような位置だったものが、もっともっと力をつけて、メジャーリーガーだとか、あるいは日本代表チームに入るというふうに、非常に、こう、世界が広がったわけです。

その後、二人の話はチームプレーと個人の技量の話に移るのだが、その中で糸井さんが面白い発言をしている。

解説者の方なんかがよく言う、「最低でも右打ちしてランナーを進める」。
その「最低でも」という言い方が、ぼくは常々疑問だったんですよ。

すると、原監督も即座に同意。

ぼくも疑問に思いますよ。
「なんで、ここで外野フライも打てないんだ」
とかね。
 
「最低でも、ここは右打ちで、ランナーを」。
そんなことできるんだったら、ヒット打てますよね。
ぼく、いっつもそう思う。
 
だから、野球って、なんていうか、難しい。簡単そうで、難しい。
 
難しいんだけど、簡単に見えるのが野球なんですよね。

いや~、自分もテレビ中継見ながら、最悪でもランナー進めろよ!って言ってるなと反省。
そんな簡単じゃないんだよと。

そして、この対談のタイトルにもなっているテーマへ話は続く。

たとえばバントとか、スクイズとか、あるいはエンドランとか、そういう、チームプレーとして動く戦術、これは成功するにせよ、失敗するにせよ、動いてもらわないと困る。
でも、それ以外は「任せた」っていう、ね。
 
やっぱりもう、個人なんですよ。
 
打席に立ったら、マウンドに立ったら、孤独です。
しかし、孤独のときに、どういうふうに、いいパフォーマンスができるか。
というのが、やっぱり、日頃の練習であり、日々、コーチが伝えようとする技術であり。

そういう意味で、最後はチームじゃなく個人の力量が大事だという話。

 
孤独という話から派生して、WBCをはじめとする、混成チームのメンバーが、最初、それぞれが孤独で、硬いという話へ。
その実感は、原監督が高校時代に全日本チームに選抜されアメリカに遠征にした時に感じたことが原点となっているという。

それまでの野球といえば、いつもチームメイトといっしょでした。
なにか、チームメイトといると、自分も強く感じる。
 
チームの中に自分が融合して、知らず知らずに自分自身を大きく感じることができていたわけです。
それがひとり、ぽんっと放り出されて、日本代表というチームに入ったときにすっごく孤独感がありました。
 
いままでのプレーを果たして自分ができるだろうか、という不安が出てくる。
しかし、一度チームに溶け込んで、みんなと汗を流し、自分がもといたチームと同じような気持ちになれると、今度は、日本代表という非常に高いステージでやれてるという部分で、逆にもっと自分の力が出るんですよね。

これは、非常にイメージしやすく納得できる話。

原監督は続ける。

だから、WBCの日本代表チームも、そういうふうな、ひとりひとりがチームに融合するような環境にすることが大事だと思うんです。

この発言だけで、チーム作りをどうこう言えたものじゃないだろうし、優勝した結果論の部分もあるだろうが、第二回WBCのチーム作りはうまくいっているように見えた。

 
話はWBCの話になり、原監督は勝ち負けについては特に考えなかったと言い切る。

「勝つ」という以外ない。
「負ける」なんていうのは、頭の片隅にもなかった

そう考えられるメンタリティが凄い。

しかし、その、「戦いざま」というものに対しては気をつかいました。

大会がスタートしたら、そのあとの筋書きがどうなるかというのは、これはもう、誰にもわからない。

思ったのは、「27のアウトを取る」こと。
あるいは、「27のアウトを取られる」こと。
というなかで、どうやって進めていくか。

その、アウトの取り方と、アウトの取られ方においてはやっぱり、きちんと理にかなった、率の高い方法で、進めていかなくてはならないと、そういうプレッシャーはすごくあった

糸井さんが、そのプレッシャーに打ち勝つ支えは何だったのかと尋ねると

高校、大学と、野球をずっとやってこられたこと。
そして、ジャイアンツという球団で、四番として、
まがりなりにも長い年数、戦うことができた。
それから思えば、こんなことは、
なんというかな、まだラクだと。

そのキツい経験の中で、特に、高校時代とジャイアンツの4番時代をあげている。

高校の3年間。その、やってる最中はね、「プロ野球選手になりたい」という、夢に向かってやってるから、なんてことはないんです。あとで思うと、あれが支えになっているという感じです。

あとは、ジャイアンツというチームの四番を打っていたという経験ですね。
 
キツい試合のあと、寝て、朝、目が覚めて、「また試合だ‥‥」と思う。
しかし、それは、ぼくが自分で「四番を打ちたい」と望んでやってきたことですから、それを思うと、やれるんです。しかし、あとで思うと、なかなかね(笑)。

高校時代の原さんは知らないが、ジャイアンツ四番時代の苦しんでいる原さんは記憶に鮮明。
それが礎になっているんだなぁ。

 
2012年のシーズン、原監督率いるジャイアンツは、交流戦、ペナントレース、クライマックスシリーズ、日本シリーズ、アジアシリーズ、すべてに優勝し、5冠を達成した。
難しいのは、その翌年。
この年を、どういうふうに気持ちを切り替えて、あるいは高いモチベーションを維持したままで戦っていくんですかと尋ねると。

いつもは
「昨年は昨年、今年は横一線からのスタートだ。 切り替えて行こうじゃないか」
というふうなことで、スタートしていくんです。
 
実際、前回(2009年)、前々回(2002年)と日本一になったあと、
そういうふうに言って切り替えていったんですが、連覇はできなかった。
 
相手はジャイアンツに勝つことをはっきりと目的にして向かってくるわけですから、優勝した翌年というのは、1試合1試合が、よりハードになってくるわけですね。
 
そういうことを十分にわかったうえで、しかし、それを跳ね返すんだと。
そのつもりで戦おう、と選手たちには言いました。
立ち向かってくる相手を跳ね返して、「連覇を意識しよう」と。

監督になった後も、毎年毎年成長していることが伺える。
敵からしたらホント嫌な相手だろう。

 
気持ちの切り替え、持ち方という意味で、例えば連敗中などチームの調子が良くない中、明日も試合をしなきゃいけない監督って、なにをどう思ってるんですかと問うと

プロ野球のペナントレースっていうのは、非常に長丁場ですし、その前の日のゲームで負けていても、もう毎日のように、試合、試合なわけです。
それも、ゼロ対ゼロの状態からのプレイボールで、いつもゼロからはじまるわけですよね。
そういう点では非常に新鮮ですよ。
 
でね、シーズンも終盤になって、やっぱり致命的な敗北をすることはあります。
「あ、今日負けたらペナントレースは終わるんだな」
というゲームを迎えることは、あります。
 
ほんとうに、そのシーズン、勝てなかったと、確定してしまう試合がくる。
そのときに、がっかりすればいい

どのスポーツでも当て嵌まることだが、負けを引きずらない、気持ちを切り替えられる人じゃないと、良いパフォーマンスは出し続けれられないってこと。

最後に、糸井さんから「勝ったときに学ぶことは少ない」というけれど、勝っても学ぶことっていうのは多いですよねと問われると

学ぶものが、すごくあります。
あるけれども、勝ってしまったうれしさで、その、学び取るべきものをすーっと通り過ぎるケースはありますね。
 
やっぱり、考えるんだったら、勝ったときも負けたときと同じように、考えたほうがいい。

おっしゃるとおりで。調子が良いときほど考えなくなるのは仕事でも同じ。

今回も学びの多い特集だった。
ほぼ日さんに感謝。

イチロー@日本経済新聞

努力すれば報われると本人が思っているとしたら残念だ。
それは自分以外の第三者が思うこと。
もっと言うなら本人が努力だと認識しているような努力ではなく、第三者が見ていると努力に見えるが本人にとっては全くそうではない、という状態になくてはならないのではないか。

拙い表現でも将来自分の言葉で伝えられたらなと思う。
しかし結局、言葉とは「何を言うか」ではなく「誰が言うか」に尽きる。
その「誰が」に値する生き方をしたい。

思い出したくない打席がある。第2回WBC決勝の十回2死2,3塁のシーン。
敬遠ならどんなに楽だろうと思った。そんなふうに思ったことは初めてだ。
この打席で結果を出せなければ、今までの僕は全て消される、と思った。
恐怖に震え上がっていた。

今後、どんな場面があろうとも、あの打席以上はないのでは、と想像している。
野球をやりながら「命を削る」という意味を初めて知った瞬間だった。

学生時代にアマチュアナンバーワン投手だった山田秋親の契約金問題

2000年当時、立命館大学の山田秋親は最速153kmのストレートを誇る、アマチュア球界ナンバーワンの投手として注目を集めていた。

中日・阪神・オリックスとの争奪戦の末、ダイエーを逆指名し入団したのだが、父親が週刊文春の取材に対して契約金が6.5億であったと話し、その額が球界で申し合わせていた新人の契約時における最高標準額「契約金1億円+出来高5000万円」をはるかに上回るものだったため、コミッショナーを巻き込む大騒動となったのだ。

週刊文春2000年11月23日号の記事によると、以下のやりとりがあったという。

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記者「契約金は6億5千万ですか?」
父親「そう聞いてます」
記者「支払いは分割ですか?」
父親「そういう話も出ました」

後々、阿部慎之助の契約金が10億円だったことが明るみに出たように、少なくとも当時は、裕福な球団はそのぐらいのお金を投資して逸材を手に入れようとしていたのだ。

 
それにしても、当時の山田と各球団(主にダイエーだと思うが)との駆け引きが面白い。
中日ファンの方のサイトから関連する部分を抜粋させていただく。

2000/10/24(火)
ダイエーと中日の間で争奪戦が展開されている立命大・山田秋親投手(22)だが、この日で公式戦の全日程が終了、そのまま逆指名会見が行われると思われたが、プロ入りを表明するのみに留まり希望球団については明言を避けた。ダイエー入りが有力視される山田君だが、結論は日本シリーズ終了後まで持ち越し、いまだ心が揺らいでる様子。

2000/10/26(木)
山田君の「他球団の評価を聞きたい」という裏金つり上げ作戦にまんまとはまった中日は、佐藤球団社長らが山田君と直接交渉、「機会があれば星野監督に会って欲しい」と説得した。 星野監督について山田君は 「監督には任期があるから」と、あまり監督に気にいられ過ぎると万が一高木守道や谷沢健一が監督になった場合、即座にロッテに売り飛ばされることを把握してる様子。

2000/10/27(金)
26日の佐藤球団社長に続き、この日は星野監督が山田君と交渉、「このオレが惚れこんだんだから。日本一のピッチャーにしてやる。オレが日本を代表するピッチャーに育てる!」と熱心な説得を行なった。ドラフト選手に対し監督が自ら赴くのは異例中の異例で、山田君に対する評価・期待がいかに高いかが伺える中日だが、と同時に監督が動かなければどうしようもないほど逆指名は絶望的であるという状況は、「背番号20をやってもいい」という現実的でない大風呂敷によくあらわれている。

2000/10/28(土)
山田君の逆指名会見が11月2日に行われることが決まった。山田君は希望球団について、「強くて打撃で援護してくるチームがいい」と語った。

2000/10/29(日)
山田君のダイエー逆指名が決定した。 山田君は「ダイエーか阪神かで迷ったが、ダイエーに行かないと後悔すると思い決心した」と、何と最終候補に残っていたのは阪神だったという衝撃事実を激白。「打線が援護」云々は中日を断るための方便だった事が明らかになった。「親としては中日を薦めた」(父・卓郎さん)と最後まで交渉した中日スカウトの顔を立ててはいたものの、「親会社の経営不振が心配」とカネの話を持ち出して他3球団と接触、結果、山田君の手のひらの中で転がった4球団の争いはダイエーに軍配が上がった。 逆指名会見は11月2日に行われる。

2000/10/31(火)
前日に「立命大・山田、ダイエー入りへ」と報道した舌の根も乾かぬうちに、中日スポーツが「竜、再びチャンス!立命大・山田秋親、ダイエー逆指名棚上げ!」などと言い出した。記事によると、「山田サイドがOB会側と協議する前の29日に、ダイエー入り決意を 一部の報道メディアに漏らした。これがOB会側の反発を買ったようだ」というものだが、一部メディアも何も、お前んとこの新聞やないか と中スポ読者からは総ツッコミ。正式会見があったわけでもないのに「山田、ダイエー入り決定」と30日付けの中スポで報道したその思惑は、OB会をつっつき絡め手で山田君に追い込みをかけるためだったのかどうかは不明。

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2000/10/31(火)
学生とは思えない超大物ぶりを見せていた山田君が、当初の予定通り逆指名先をダイエーに決定、忙しい中はるばる九州まで来てくれた3球団に電話で断りを入れた。

2000/11/16(火)
ダイエーを逆指名した立命大・山田秋親投手に対し、ダイエー側が提示した契約金が6億5千万円であった事を「週刊文春」が報じた。これに対し、交渉の場に直接出向いた挙句フラれた中日・星野監督は怒り心頭、「事実とすれば大変なこと。ファンも“プロ野球ってこういうものなのか”という目で見る。コミッショナーもしっかり調査せないかんよ」と、福留・川上を獲ったときの証拠隠滅は済んでるとでも言わんばかりの大胆発言で「裏金疑惑」に不快感をあらわにした。なお、この件に関してコミッショナーは「事実関係がはっきりしないし、そもそも(契約金の上限)1億というのはあくまで申し合わせ事項、野球協約に定められてるわけではない」と述べるにとどまった。

この中日ファンの方のサイトは面白い。
ダイエーが日本シリーズで2勝した後に4連敗したのや、吉永を手放したのもこのためではないかということだった。

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そして、時は経ち、NEWSポストセブンの『元SB・山田が6.5億契約金振り返り「そっとして欲しかった」』で、山田自体が騒動を振り返っている。

金額はそこまでじゃなかったですけど……。僕や慎之助は、当時の大学球界では頭一つ抜けた存在だった。だからもらって当然のような意識があった。勝手な言い分かもしれませんが、自分の中ではそっとしておいて欲しかったし、素直に野球だけを見て欲しかった

「もらって当然」。。。
なぜ自分ばかりが責められるのかという苦しみはあったのだろうが、言葉は選んだほうがいい。
活字になるとお世辞にも印象が良いとはいえない。
それも何も、その後活躍していないという事実が重くのしかかる。

菊池雄星 ルーキー秘話

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

知らぬ間に、周りが期待する「20年にひとりの怪物ルーキー」を演じることばかりに意識が集中し、自分の体が発している黄色信号にも鈍感になっていた。

「トレーナーに報告するときも違和感という言葉に逃げていた。痛いっていうと、二軍に落とされちゃうと思ったので」

菊池は高校3年夏、左のあばら骨を骨折した。人よりも柔らかく、速い腕の振りが原因だった。そのため年内は投球練習は行なわず、年明け、合同自主トレから一気にペースを上げた。結果、新たな故障を招いたのだ。

脇腹がスムーズに動かなくなって、本来の位置より腕が高くなっていた。そのフォームで力を入れて投げたのがまずかった。

それでも痛みが小さかった自主トレ期は、まだ誤魔化しがきいた。ところが2月にキャンプインし、中盤、痛みがはっきりと感じられるようになるにつれ、まずは菊池の調整方法が明らかに冷静さを欠き始める。4日間のノースロー調整をしたかと思いきや、首脳陣に投げられるところをアピールしようと一気に171球も投げ込んだりした。

「何をやっているのか、わからなくなっていましたね。肩を壊したことがなかったので、ちょっと休めば治ると思ったのですが、そんなに甘いものではなかった」

「高校時代なら結果が出なくても、自分という人間だけは認めてもらえた。でも、プロはブルペンでの投球練習も含め、目に見えている部分がすべて。結果を出せない人間に対する見方が厳しくなるのは当たり前なんです。そういう目で見たら人間なんて、悪いところはいくらでも出てくるじゃないですか」

「最初の頃はいいことばかり書かれたのに、悪いことばかり書かれるようになった。マスコミって、そういうものですよね。持ち上げといて、落とす。だから、前に比べると人前に出たくなくなったし、人と話すことも好きじゃなくなった」

「気圧が低いと筋肉が張る。だから雨天の日は力を入れても無駄。ふわ~んと投げる」

90年代ルーキー秘話

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

まずは、仰木監督の野茂英雄へのコメント。
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80年代ルーキー秘話(2)

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

桑田真澄 & 清原和博

甲子園時代のほうが何倍も印象は強いが、プロ入り後も時代を確実に作っていった二人。

桑田は1年目から、「上半身を鍛えれば球速、下半身を鍛えればコントロールが向上する」と理論を展開。先輩たちはそんな桑田を「不思議で陰気」と感じ、”マジックインキ”とあだ名した。

西本しかり、我が道を進む人間は周りから疎まれるもの。
それが、プロ野球の世界にまであるのは寂しい話ではあるが。

 
清原に「プロとは何か」を教えたのは東尾。
銀座でツケで飲めるようになってこそ一人前だと、清原を夜の街に連れ出した。
東尾の清原への言葉。

好きになった女がいたら、グラウンドに連れて行け。汗と泥まみれの姿に何も感じないヤツならやめておけ

また、天真爛漫そうな清原ではあるが、不振に陥った時、室内練習場で涙を流しながら打ち込む清原の姿が目撃されている。

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阿波野秀幸 & 西崎幸広

渡辺久信と合わせて、トレンディ・エースと呼ばれた。彼らはスタミナをつけるために、野球選手定番の焼肉ではなくプロテインを好んで摂取。投げ込みよりも、メジャーで流行していたウェイト中心のトレーニングを重視する。そんな世代の”走り”だった。

それまでセ・リーグを中心にしか見ていなかった自分にとって、阿波野、西崎に西武の渡辺、工藤が球界を引っ張るパ・リーグが眩しく見えたものだった。

80年代ルーキー秘話(1)

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

定岡正二 & 西本聖

西本は1年目からきれいに勝とうなどとは考えていなかった。内角を抉るシュートを覚えると、多摩川のブルペンでの居残り練習で完成度を高めていく。一方の定岡はスライダーを主体にしたきれいなピッチングにこだわった。

ライバルに闘争心を燃やして人一倍努力し、実力を高めていく西本聖。
今の時代にはなかなかここまでの人は現れない。

江川へのライバル心にはついては、「二人のエース<江川卓vs西本聖>」で触れられている。

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原辰徳 & 篠塚利夫

原が守ることになったセカンドは、一つ年上で高校時代から仲の良かった篠塚と同じポジション。「2人を競い合わせて育てていく」と藤田監督は強調したが、気のやさしい篠塚はライバルの原に対しても「巨人のしきたり」を何くれとなく教えた。のちに中畑の故障で原はサードに転向することになるが、監督就任後も「あの時の恩は忘れない」と篠塚の面倒を見た。

確かに、原が初めて監督となった2002~2003年は、前年までの長嶋ジャイアンツのコーチだったこともあり篠塚はコーチを継続。2003年シーズン終了後に二人とも解任され、第二次原ジャイアンツが2005年シーズン後に発足すると、篠塚もコーチとして復帰している。

荒木大輔

神宮球場での練習には女学生が押しかけ、選手たちはろくろくトイレにも行けないほどだった。そんな選手たちの苦情を聞き入れた球団は、混乱回避のために球場と選手サロンとの間にトンネルを建設。このとき作られた地下通路は通称「荒木トンネル」と呼ばれ、現在も当時のままに残されている。

その荒木トンネルの写真がこちら。
arakitonnel

藤王康晴

地元・中日に請われて入団した享栄高の藤王は、先輩の田尾や藤波らに可愛がられ、よく飲みに連れて行かれた。1年目で34試合出場、打率3割6分1厘は立派だが、地元ファンの贔屓の引き倒し、18歳の若さゆえに夜の練習よりも夜の街に溺れてしまった。

新人で背番号1を背負っていたし、名前もなんだか強そうな名前で、子供心に強く印象に残っている選手の一人である。

斎藤佑樹(2) プロに入って

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

2010年秋のドラフトで、4球団競合の末、日本ハムに1位で入団した斎藤佑樹。
同年12月9日には日本ハムの本拠地・札幌ドームにおいて、2003年の新庄剛志以来7年ぶりの単独の入団会見が行われるなど、注目度合いは著しく高かった。

大学時代もずっと注目され続けてきたという経緯もあってだろう、彼はどんなに注目されても浮かれることはない。
少なくとも、浮かれている様を人に見せることはない。

甲子園で勝ったこと、神宮で日本一になったことは、今の自分の支えにはなってはいるが、今の自分を励ましてくれるものではない。今はもう、とにかく上しか見てない。

彼はどちらかというと、技術よりも考え方、自分の律し方という面で、プロフェッショナルだなと思わされる。

打たれたシーンはあまり覚えてない。抑えたシーンのほうを覚えている。たとえばホームランを打たれて負けたとしても、あの一発で負けたというふうには考えない。むしろ、あの一発がなければ勝てたと考える。別に、そう思おうとしているわけではなく、ホントに思っている。

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斎藤佑樹(1) 高校・大学時代

Number 774号 ルーキー秘話。~プロ野球大型新人伝説~(2011年3月10日発売) 』より。

小さいころの野球は、”おもしろい”。楽しいというふうには感じなかった。楽しかったのは、やっぱり高校3年の夏と、大学4年の秋の野球。やっぱり、結果を残していくことで世の中が注目してくれるんで、結果を残していくときが一番、楽しい。

単純に、人よりたくさんの苦労をして、よりよい結果を出すことに快感を覚える。高校のときは、高校2年の夏まで苦労をしてきて、そこから3年の一年間、頑張ってやってきたことの結果を出せた喜びだった。大学のときは1年、2年、3年と苦労が増えて、最後に結果を出せたことへの喜び。これはもう、すごく快感だった。

中学生まで野球を本気でやってきたつもりだったが、でも、本気の野球は知らなかった。早実に入っても、最初は何も背負っていなかったと思う。自分中心で、上だけを見ていた。早くエースになりたいという気持ちだけ。当時は、自分自身がプロ野球で活躍するためにどういうシナリオを描いていくかということばかりを考えていた。

甲子園では後先も考えず、怖いもの知らずだった。ただ、自分がうまくなりたい一心で、ノーマークの状態で勝ち上がった。優勝まで、邪魔するものは何もなかったという感じだった。

甲子園のことはできすぎだ、本当の自分じゃないって自分に言い聞かせていた。自信はあった。でも、できてるうちは「できすぎだ」って思うようにしていた。

大学1年のときはいろんなことが、あまりにも簡単だった。しかも、大学1年でトップを見たから、もうそれ以上はなくなってしまった。

3年になって、そのまま行けばよかったのに、「このままでいいのか」って考えてしまった。今後10年、15年の野球人生、これでいいのかと考えて、新しいことにトライしてみた。そこでちょっとブレーキを踏んでしまったという感じ。

もっと簡単に考えればよかったという思いはある。今は、完全じゃないけど、取り戻せた感覚はある。

スコアラー福田功氏 分析のポイント

『Baseball Times 20091130号』より。

分析のポイント。

投手は、まず癖がないか。球種はただの持ち球だけではなく、握りから変化に至るまでの詳細。あとは主たる攻め方。クイックはできるのか。

打者も、コース別に強いところ、失投しても大丈夫なところなどの特徴。足は速いのか、盗塁はできるのか。これ以上は企業秘密。

アメリカやプエルトリコはパワー溢れる野球。柔らかさとパワーを兼ね備えているのが、キューバとドミニカとベネズエラ。特にドミニカは民族性なのか、関節が非常にやわらかくて体がしなやか。だから日本と同じように好投手が育つ環境にある。