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清原和博の歩んできた「男道」:桑田との出会い、運命のドラフトからのKK物語編

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清原の2009年の著作であり、私が大好きな「男道」。

第2回目の今回は、本書の中で、何と言っても一番興味深いテーマである、桑田真澄との関係性について。

 
PL学園に入学し、清原は桑田真澄と出会う。

真の友は飴であるよりもむしろ鞭だ。…… 自分との戦いに負けそうになる心に鞭を打ち、辛い練習に立ち向かう勇気を奮い起こせたのも、心のライバルがいたからだ。それが桑田真澄だった。

当時の清原と桑田は身長で10センチ以上の差があった。
しかも桑田は華奢だった。

桑田のピッチングを見た瞬間に、甘い幻想は消し飛んだ。こいつには勝てない。ひと目で、そう思った。こんな経験は初めてだった。その立ち姿、腕を鞭のようにしならせて投げるフォーム、そして指を離れたボールの描く軌跡。桑田の投げる球には、急速とか球威というものとはまた別の何かがあった。まるでボールに命が宿っているように見えた。

 
PLの練習について。

PL学園と言えば朝から晩まで練習をしていたように思われがちだけれど、野球のために勉強を疎かにすることは許されなかった。1日5時間の高校の授業をきちんと受けて、3時過ぎにグラウンドに集合し、みんなで感謝の祈りを捧げてから練習を始める。その習慣が、気持ちよかった。日が沈むまで、冬は3時間、夏は4時間程度の練習だったと思う。

ただし、桑田だけは別メニューだったと。

炎天下のグラウンドで200球も300球もピッチングをする。そのピッチングの間中、キャッチャーは構えたミットの位置を動かさない。コントロールが狂えば、ボールは後方に転々と転がっていく。そのボールは、桑田自身が拾わなければならなかった。

拾いにいくのは、後でまとめてではなく、そのたびにごとに。しかもダッシュで。
本当に桑田が死んでしまうんじゃないかと思ったがことが何度もあったと。

桑田は、そんなきつい練習をこなしているというのに、野球部としての練習が終わった後に、ひとりでグラウンドを走り込んでいた。…… 負けられないと思った。桑田が走っている間は、僕もバットを振り続けた。…… 僕だけじゃなく、野球部の部員はみんな、そうやって自主練習していたのだ。それがPL学園の強さの秘密だった。

要は、個々人の気持ちが違う。だから全体練習は長くなくても、みんな練習しているのだ。

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自分ひとりで野球選手になれたなんて思ったことはない。…… その中からもし一人だけを選ぶとするなら、それはやはり彼しかいない。桑田がいなかったら、その後の僕はないと思っている。

ここまではっきりと言い切れる、ライバルがいる人って稀だろう。

 
時は経ち、運命のドラフトへ。

王監督とお会いしたことはないけれど、監督はきっと僕のことを誰よりも深く理解してくれているに違いない。勝手にそう思い込んでいた

この思い込み。清原らしく、微笑ましくもある。

当時清原は、仮に巨人がクジを外しても、3年間実業団で野球をやろうと考え、実際に実業団から内定ももらっていた。

ドラフト会議の前に、プロ入りを希望する3年生は野球部に退部届を出すことになっているのだが、進学希望の桑田はそれもしていなかった。だから、どの球団も桑田を指名しなかった。その桑田を、なぜジャイアンツが指名したのか。いやそんなことよりも、桑田はなぜそのことを僕に黙っていたのだろう。ジャイアンツが志望なら、なぜ自分もジャイアンツに行きたいと、僕に言ってくれなかったのか。…… いちばん傷ついたのは、ジャイアンツに指名されなかったことよりも何よりも、そのことだった。…… 「巨人が桑田選手を指名したことをどう思いますか」だって?そんなこと言えるわけないじゃないか。そう思ったら、涙が止まらなくなった。記者会見はそれで終わった。

何度読んでも、清原の心境を想像すると泣けてくる。

桑田が早稲田大学進学を取り消し、ジャイアンツと契約を結んだと聞いたときには、また小さなショックを受けた。心のどこかでは、桑田がジャイアンツを蹴るんじゃないかと期待していたのだ。…… こんなことを文字にしたくない。僕はあの時、桑田を憎んでいた。そして、僕に桑田を憎ませることになった、王監督を憎んだ。…… 僕はあの人の前でホームランを打ちたかった。あの人の目を見張らせたかった。自分がホームランを打てば打つほど、僕は王貞治というバッターのすごさを理解した。あの人の本当のすごさが理解できるのは、自分しかいないと密かに思っていた。

その年、巨人はドラフトの1位から4位まですべてピッチャー。そんな巨人の事情を知らず、うかれていた清原は、後々冷静になればなるほど、悔しくなってきたという。

卒業式で桑田と会ったとき、僕は桑田と目を合わせなかった。桑田が何かを言いたそうにしているのは気づいていたけれど、何も言わせるものかと思った。うんざりするくらいのマスコミが群がってきた。僕と桑田の2ショットをカメラに納めるまでは帰らないという意気込みだった。卒業証書を片手に、握手させられた。桑田の手の温かさには、何も変わりがなかった。胸が痛かった。僕はまた目をそらした。

 
プロに入ってから振り返って。

桑田に対する当時の感情を、一言で説明するのは難しい。あのドラフト会議の日から、昔のように話せなくなったのは事実だ。西武時代の11年間…… 試合の合間に二言三言言葉をかわしたこともある。冗談を言って笑い合ったことだってある。ただ、あのドラフトのことにだけは、お互い絶対触れようとはしなかった。…… 桑田はいつも自分の気持ちは高校時代と何も変わっていないのだと告げたがっているようだった。試合で向かい合ったときは、いつも悲しいくらい男らしい真っ向勝負を挑んできた。キャッチャーのサインに首を振る。何度も何度も首を振る。なぜ首を振っているのかは、誰に聞かなくても僕がいちばん知っていた。…… いつも渾身の球を投げ込んできた。

オールスターはともかくとして、1994年の巨人対西武の日本シリーズでも直球勝負をしかけて、見事にホームランを打たれた姿は印象的である。その時、巨人は勝っていたからいいようなものの、守っている側からするとたまったもんじゃなかっただろう。

 
1997年4月6日、桑田が661日ぶりにマウンドに立った試合。

バッターボックスに先頭打者が入り、キャッチャーとサインをかわした桑田が、ゆっくりと振りかぶる。観客の声が盛り上がる。そのとき、僕は長年感じていた違和感の正体を知った。……あの暑い夏の日、PL学園のユニフォームを着てピッチングする桑田の姿が脳裏にフラッシュバックした。……ファーストにぱっとついて、マウンドを見るとそこに桑田がいる。桑田が振りかぶる背中を、僕が見ている。その関係が、いちばんしっくりくる。バッターボックスから桑田を見るのは、どうも何かが違うような気がして仕方がなかった。

 
巨人に移籍後の、二人の関係性。

子供の頃だったら、どんなに良かっただろうと思う。聞きたいことがあったら素直に聞いていただろう。…… 許す、許さないという問題ではないのかもしれないが、僕の中ではとっくの昔に”許し”ていたのだ。桑田がどんなことを話そうと、僕はそれを受け入れるつもりだった。けれど、桑田はそのことについては触れようとしなかった。そして桑田から話が出ない限り、僕から聞くべきことは何もなかった。あのドラフトの話は靴の中に入った小さな石のように、僕たちの間に挟まっていた。…… その小石のせいで、2人の距離が昔みたいにゼロになることはなかった。

 
桑田は、2008年3月25日に引退を発表した。

翌朝のニュースで知った。突然の引退だった。体中から力が抜けた。心に穴があいた。本当に何もする気がなくなって、欠かさず続けていたリハビリと練習に3日間も行けなかった。桑田という存在が自分にとってそれほど大きかったのだということに、僕は長い間気づいていなかった。

メジャーに挑戦中だった桑田。場所は違えど、清原の中で桑田の存在が未だに大きかったというのは、普通のファンからしたら驚きである。

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