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清原和博の歩んできた「男道」:巨人とのこじれ、オリックスへの移籍、引退編

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清原和博の2009年の著作、「男道」。

第3回目の今回は、FAで憧れの巨人に入ったものの、自身の成績の悪化とともに球団との関係性はこじれ、仰木彬からのラブコールを受けてオリックスへ移籍、そして引退へ編である。

 
2004年、清原と巨人の関係はこじれにこじれていた。

2004年のシーズンオフ、巨人との契約が1年残っているなかで、清原は”ある人物”から「来季の巨人軍に、清原君の居場所はない」と、事実上の戦力外通告を受ける。

何の関係もない第三者でしかないその人が、なぜ僕とジャイアンツとの契約の話に口を出してくるのか。あなたは球団の人なのですかと、僕は聞いた。
その人は、「この話は私が巨人軍から預かっている」と言い張るだけだった。

契約当事者ではない人間が間に入ってくる、それが、読売巨人軍だった。

<<追記>>
2016年6月9日号の週刊新潮に気になる記事が載っていた。
巨人の球団関係者の話によると

清原の巨人在籍終盤の頃、高年俸なのに成績が振るわず、監督批判を公言したり、ピアスを付けたりするようになった清原は、常に放出話が囁かれるようになりました。そんな時、一茂さんが“僕は彼の近所に住んでいて親しい”“僕が告げます”と名乗りを上げてきたのです。球団としては、面倒くさい事案を処理してくれるとはありがたい、と喜んでいたのですが

しかし、実際はむしろ事態をややこしくしただけだったと。

清原が“アイツはどういう立場でモノを言ってきているんだ!”“ふざけるな!”と逆に球団にねじ込んできたのです。確かにクビを告げるような役目でもないし、選手としての実績も自分とは比べものにならない一茂さんが引導を渡そうとしてきたことが腹に据えかねたのでしょう

これは、上の話と符号が合う。
そして、このことにより、一茂は清原の恨みを買っているという。さもありなんな話。
一茂に任せる球団も球団だと思うが……
<<追記ここまで>>

 
球団幹部に直接話し合おうと電話すると、終始逃げ腰。球団事務所に伺うと言うと、それは困るからホテルで会おうと。それを断り、球団事務所に乗り込むも何の結論も出なかった。挙げ句、事務所に乗り込んできたことを謝罪してほしいと申し入れてきた。そして、2004年の11月30日に球団代表の清武氏とともに謝罪会見に臨むことになる。

僕はそれまで、いつも自分の気持ちに正直に生きてきた。自分の気持ちを曲げたことは一度もない。…… あの場面で謝罪するということは、その生き方を曲げるということだった。…… 悔しくて悔しくて、この悔しさを自分のカラダに刻みつけておきたかった。どんな悔しさも、人はいつか忘れてしまう。その忘れることさえ、悔しくてたまらなかったのだ。…… 耳に穴をあけてピアスをした。…… あのダイヤのピアスは僕の悔しさの結晶だった。

本人も認めているが、子どもっぽさのある清原ではあるが、この時の悔しさが相当なものだということは、誰しも共感できるだろう。

 
泥水を飲む覚悟で、巨人に残った清原ではあったが、2005年は膝の状態の悪化もあり、成績もいまいち。出場試合も96試合にとどまった。

8月には、堀内監督に、「キヨ、残り試合は若手で行くからもう出番はない。俺も辛いんだけどな」と告げられた。

ロッカールームで荷物をまとめた。悔しくて、涙すら出なかった。

さらに、8月29日に球団幹部に都内のホテルの部屋に呼び出される。

話は1分で終わった。その人は言った。「来季、君とは契約しないから。で、なんかある?」
 
神宮外苑の並木道にクルマを停めて、ハンドルにつっぷして泣いた。僕だって覚悟はしていたのだ。最後位は平和的に握手をして別れたかった。…… 人を恨んで、組織を恨んで俺の野球人生は終わるのか。悔しくて、悔しくて、涙が止まらなかった。

巨人の非人間的な対応は、1年では当然変わらず。

何もかもが嫌な思い出だなんて言うつもりは毛頭ない。…… 巨人軍の伝統というものから、たくさんのことを学んだ。選手たちの意識の高さから、荷物運びの方法にいたるまで、何もかもが他の球団とは違っていた。

なお、巨人の内部ルールというのは、有名なものであれば髭や茶髪の禁止(シーズン中のみ)や、移動時のスーツやネクタイ着用などがあるが、「荷物の運び方」については聞いたことがないし、ネットで調べてもそれらしき記述は見当たらなかった。

ちなみに、内部ルールの中で知らなかったものをあげると、ピッチャーについては、命ともいえる指を守るため、利き手での握手や料理の禁止、ガムをかむことの禁止、全体練習では球団から支給された公式ウエアの着用が義務づけられ、サンダル、短パン姿での球場入りは禁止、などなど。さらに、2014年の新人選手へ下した通達では、野球を辞めるまで、たばことブログ、ツイッターを禁止するとのこと。

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さて、話は戻して、2005年8月。失意にある清原の元へ電話が唐突にかかってくる。

「おう、わしや」
 
声にまったく聞き覚えがなかった。
 
「はっ?誰ですか?」
 
そういう返事をしたと思う。電話の向こうの人は、なぜ自分がわからないのかという調子で、畳みかけてきた。
 
「わしや、わし。仰木や」

当時オリックスの監督を務めていた仰木彬氏からの勧誘の電話なわけだが、この部分が、本書の出だしに使われている。読者の心を見事に掴むプロローグだと感心させられる。

 
当時、清原は仰木さんのことは知ってはいても、挨拶以上の話はしたことがなかったという。ただ、西武vs近鉄の闘いの中で、お互いに常に意識し合っていた関係ではあった。

ここ一番という勝負所になると、仰木監督は必ずと言っていいくらい、僕の嫌なことをしてきた。ネクストサークルで気合いを入れ、バッターボックスに立ってピッチャーを睨みつけた瞬間に、そのピッチャーを交代する。右打ちしようと密かに決めていると、サインを出して野手の配置を変える。まるで心を読んでいるかのような采配で、僕の集中力を奪うのだ。

仰木さんは近鉄の監督時代、なんとしても清原を潰そうと、死球になってもいいから徹底的に内角を攻めろと指示を出していたらしい。

 
そんな清原に仰木さんがかけた言葉。

ジャイアンツに負けて、尻尾を丸めて逃げ出すんやない。お前なら、今の大阪を元気にできる。お前が自分の野球人生をまっとうするために、最後の力を振り絞って戦ってる姿を見たら、大阪だけやない、関西の人間はみんな元気になる。生まれ故郷の関西に恩返しするために、大阪へ帰ってこい。ウチがどうしても嫌というなら、阪神でもいいんや

この「阪神でもいいやないか」という言葉は清原に相当響いたようだ。
おそらく、それは仰木さんの本音なのだろうが、一方で、こう言えば響くということを仰木さんは考えて言ってのではないかと邪推してしまう。

 
仰木さんは、2005年シーズン終了とともにオリックスの監督を引退するが、球団のシニア・アドバイザーに就任。その後も、清原を口説き落とそうとしていたが、肺癌により12月15日に亡くなってしまう。清原は仰木さんの遺志を継ぎオリックスに移籍する。

しかし、翌2006年も67試合の出場にとどまる。2007年の2月に、清原は左ひざの手術を受け、結局その年のシーズンは1試合も出場できなかった。2007-8年頃はリハビリの日々を過ごす中、多くの人に助けられたという。

その一人に加藤博一がいる。

加藤博一さんは、昔からよく僕に声をかけて下さっていた。この時期、彼自身が大病と戦っていたにもかかわらず、病室から僕に励ましのメールを送って下さった。…… 思いやりのこもった優しいメールに、叱咤される気がした。

2008年1月に肺がんで亡くなった加藤氏。広くプロ野球ファンから愛されていた加藤と清原にこんな繋がりがあったとは。

 
2008年7月末、引退を決意。両親を祖父母の墓参りに誘う。

お墓の手前でクルマを降りて、母に背中を向けた。「久しぶりにおんぶしてやるわ」と言った。…… 母を背負ったのは、顔を見ていると言い出せなくなりそうだったからだ。背負ったとたん、堰き止めていたものがあふれて、涙がこみあげた。
 
「お母さん、僕な、野球やめるわ」
 
涙をこらえて、なるべくさりげなく言った。
母はびっくりするほど大きな声で応えた。
 
「わかった。もうやめ」
 
母も嗚咽していた。何があっても絶対諦めるなと言う、強い母だった。…… そういう母が、もうやめなさいと言って泣いていた。

この本で、いちばん好きなくだり。

 
2008年10月1日、現役最後の試合。相手は王監督率いるソフトバンクホークス。佐々木や金本、片岡、橋本清、土井正博元西武打撃コーチのほか、イチロー、桑田もかけつけた。
(PL時代の後輩や盟友の名前の中に、土井氏の名前があるあたり、その信頼関係が伺える)

僕と桑田と王監督が、この場に揃っていた。23年前のあの日とはまた違い形で。3人ともジャイアンツとは別のユニフォームを着ていた。そして3人とも、そのユニフォームを同じ年に脱ぐことになった。

なんの因果だろうか。不思議である。

試合が始まる前に、王監督から花束を授与されることになっていた。縁の不思議さを感じた。王監督に会うとき、僕はいつも少しだけ緊張する。花束を手渡されたとき、王監督が耳元で囁いた。その言葉で、すべてが癒された。…… 監督はこう言ったのだ。
 
「生まれ変わったら、必ず同じチームでホームラン競争しような」
 
王監督もこの23年間、僕と一緒に同じ十字架を背負ってくれていたのだと思った。そして23年で初めて、僕はこれで良かったのだと思った。あのドラフトがあったから、今日の僕があるのだと。僕の心の中心にあった小さな氷の塊を、最後の最後に王監督は溶かしてくれた。

この本で、二番目に好きなくだり。


王さんから花束を受け取るシーンがこちら。

清原の表情が堪らない。

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