RSS

清原和博の歩んできた「男道」:子供時代~PL学園編

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

清原和博のことを、自分は好きなのか、嫌いなのか。
取り立ててファンだったことはないし、敢えてその動向に注目したこともなかった。

しかし、PL学園でのKKの活躍には、小さい頃の自分は胸を躍らせていたし、まぎれもない時代の寵児であったし、やはり、時間が経っても自分にとってのヒーローであることに変わりはなかった。(PL時代は、私はどちらかというと桑田派ではあったが)

西武での華やかな時代はさておき、巨人に移籍し、その後の晩年はヒーローの輝きを明らかに失っていた。
2008年に現役引退し、2009年の1月に『男道』という書籍を幻冬舎から上梓。
さほど興味があったわけではなかったが、たまたま書店でパラパラとめくっていたらPL時代の話が目に飛び込んできて、一気に引きこまれ、購入にいたった。

買って後悔はしなかった。めちゃくちゃ面白かった

 
ただし、問題は、この本のビジュアルなのだ。

タイトルの「男道」にも気恥ずかしさを感じてしまうが、それよりも何よりも、短髪の清原の顔がアップでドーーンと居座る表紙のデザイン。これはキツい。

購入してから何年か経ち、ちょうど引越しのタイミングで、もう一度読んでから捨てようと思い至った。

しかし、、、読んだら、めっちゃ面白いのだ。とても捨てられない。
ベースとなる清原の経験が惹きつけるのだろうが、それ以上に幻冬舎の編集者の力を感じる。

 
以下、自分に刺さった箇所、興味深い箇所をあげていくが、あまりに共感する部分が多かったため、数回に分けて投稿しようと思う。

まず1回目の今回は、子ども時代からPL学園への入学、PL学園での華々しい活躍編
(桑田との出会いや、思い入れに関しては、別の投稿にまとめてある。)

 
清原の野球のキャリアのスタートは、小学校3年生の時。
岸和田リトルリーグの入団テストを受ける。

テストは50メートル走と遠投。50メートル走はテストを受けに来ていた4年生にも5年生にも負けない最高記録。硬球による遠投は40メートルが合格ライン、今までの最高記録が54メートルのところ、なんと70メートルも投げた。並みの人材じゃないのが、よくわかる逸話である。

岸和田リトルの練習内容も驚きそのもの。

ピッチングはひたすら速球のみ。将来のことを考え小手先の変化球は決して教えない。バッティングも、1時間も2時間も素振りをして、それからティーバッティングとトスバッティングを延々と繰り返す。実際のバッティングでは、センター返しのみ。レフト方向にホームランを打っても怒鳴られる。

さらには、放課後の練習時間の大半がランニングやダッシュで占められているのに、毎朝10キロのランニングを命じられた。柔軟で強靭な下半身がなければ技術を身につけても大成しないというのがコーチの持論だったという。

全国レベルのチームは、小学生でもここまでやっている。唖然である。

— ad —

ここで、清原の至言。

人に与えられた時間は、1日24時間しかない。それは誰だって同じなわけで、その24時間でどれだけ自分を成長させられるかが勝負なのだ。ならば、自分は1日24時間のすべてを野球に打ち込めばいいと思った。そして、寝ても覚めても野球のことだけを考えるようになった。僕以上に、野球に打ち込んでいる人間はいない。だから僕は、誰にも負けない。そう信じることができたのだ。

何の世界でも、トップを究める人は似たようなものだが、ゾクゾクさせられる。

 
高校は、母親が天理市出身だったということもあり、当初は天理高校に進む予定だったが、父親と見学にいったPL学園のキャンパスや野球部のグラウンドの立派さに圧倒されて、急きょPL学園に進むことに。
天理高校に進学するために、まったく信心深くない母親は天理教へ入信していたのだが、PLに行くことになったのでPL教に入信するから天理教はやめますと教団に謝りにいったと。

そしたらな、天理教の先生が「いやいや、宗教というものは入り口が違っても、中に入ったら一緒です。だから、気にすることはありません。息子さんがPL学園で一所懸命に野球に打ち込まれることを私らも応援してます」って温かく出してくれはった。その言葉に嘘はなかったんよ。お前がPL学園で甲子園に出場して初優勝したとき、真っ先にウチに電話をくれはったのも、その人やったんやからな

天理教(もしくはその教団の方)の懐の深さがわかる話。

 
面白いのは、PLへ進むことが決まった中学3年生のとき、母親が清原に毎日20キロのランニングを課したというエピソード。

実家の近所に久米田池という貯水池がある。その周囲の土手を大回りすると約3.7キロ。それを毎日6周した。授業が終わって帰宅すると、母が待ちかまえていて自転車で伴走するのだ。ランニングを終えるまでは、夕食も食べさせてもらえなかった。……あの暗い道を今でも時々思い出す。身長はもう185センチに達していたと思う。カラダは大きくても、僕はまだほんの子供だった。白状すれば、母親と毎日走るのは楽しかった。口ではぶつぶつ文句も言っていたけれど、毎日20キロのランニングを一度も辛いとは思わなかったのは、母が一緒に走ってくれたからだった。

清原と母親の関係性がわかる愛情溢れるお話。それにしても、「20キロのランニングを一度も辛いとは思わなかった」というのは、末恐ろしい。

なお、なぜ毎日20キロも走らされたかというと、高校に入ったばかりの新入生は疲労骨折しやすいと聞いたいたからだという。そして、実際に激しい練習で疲労骨折を起こし、そのまま退部する新人が少なからずいたという。そういう世界なのだ。

 
高校に入学すると、清原はすぐに頭角を現わす。

高校での初打席は、1年生の6月、沖縄の興南高校との練習試合だった。代打でバッターボックスに立った僕は、練習試合とはいえ、初めて高校生のピッチャーが本気で投げる球を打った。相手は後に阪神のピッチャーとなる仲田幸司さんだった。右中間を抜けるライナー、2塁打だった。

仲田幸司が初対戦のピッチャーとは面白い。しかも初打席、初安打で、右方向に打っている。

桑田は外角ストレートとカーブに絶対の自信を持っていた。中村監督から「もっと内角にストレートを投げたらどうだ」と助言されても、自分は外角のストレートを磨きますと言って聞かなかったくらいだ。

1年生にして、桑田の主張の強さ。それを許す監督も面白いが。

 
優勝大本命、池田との対戦では、エースの水野勝仁のおそるべきスライダーにきりきり舞いさせられ、清原は4打席4三振。一方桑田は、強豪打線を完封に抑えたうえ、自身で水野からホームランも打つ大活躍。
それもあってか、チームが優勝しても、水野だけでなく、桑田にも負けた気がしていたと清原は振り返る。

1年の夏の甲子園で一気にスターダムにのしあがった二人だが、当時の環境には戸惑ったうえ、迷惑ですらあったようだ。

目に見えないたくさんの自己犠牲があって、僕たちは優勝旗を掴むことができたのだ。それを、ひとりか2人の目立った場所にいる人間だけが御輿を担いでいるような報道をされたら、みんなどんな気分になるか。…… 桑田と僕が、野球の練習以外のときも一緒にいるようになったのは、そういうこともあったかもしれない。

 
それから2年が過ぎ、3年の夏。準々決勝で、大会屈指の投手である中山裕章がエースの高知商業とぶつかる。

真ん中高めの速球を、バットが捉えた。角度もタイミングも完璧だった。金属バットの芯と硬球の芯が完全に重なって、ギンッという特有の金属音が鳴った。地面を蹴る左脚の力、腰と上体の回転が生み出す遠心力、左腕と右腕の筋力、バットを返す手首の力、僕の解き放った力のすべてが、その一点で時速140キロを超える速球と衝突した。…… 打球が見たこともない角度で矢のように飛んでいった。…… 観客も敵も味方も、全員がその方向を見上げていた。ベンチでは中村監督までが立ち上がって、ボールの落下地点を確認していた。笑顔を通り越して、苦笑に近い。

少年時代からプロを引退するまでに打ち続けた何百本のホームランの中でも、最も記憶に残るホームランだという。その映像がこちら。


1分50秒あたりで、その特大ホームランのシーンを観ることができる。確かにどえらい当たりである。

— ad —