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清原和博の歩んできた「男道」:その他、全般編

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清原和博の2009年の著作、「男道」。

最終回、第4回目の今回は、今までの3回には入らなかったエピソードの中から、心に留まった箇所を記していく。

 
運命のドラフトを経て、西武へ入団。プロ選手の格の違いに、度肝を抜かれる。

東尾修さんが投げるのを初めて見たとき、この人は、化け物かと思った。指を離れた球が、次の瞬間にはキャッチャーミットで音を立てていた。甲子園で豪腕と騒がれるようなピッチャーと比較するなら、急速そのものの差は、時速にしてせいぜい10キロくらいのものだろう。その差に目がついていかなかった。絶対的な速度だけでなく、コースを突いたり、球種を投げ分けるテクニックも尋常ではない。しかもそれが東尾さんにとってはただの練習で、軽く肩を慣らしているという程度の鼻歌交じりのピッチングなのは明白だった。怖さと言うよりは、目眩を感じた。

 
オープン戦では1本もホームランは打てず。プロ第1号は、開幕2戦目に南海の藤本修二から。

試合後のインタビューを受けたときは、目が真っ赤だったと思う。ただの嬉し涙ではない。重圧から解放された安堵の涙でもあった。オープン戦でのプレッシャーはすさまじかった。3万人の観客の視線が痛かった。…… 僕が跳び上がって喜んでいるというのに、藤本さんは打たれたことを気にしていなかった。…… ホームランよりも、その前の初打席で誘い球にも手を出さず、まるで老練なバッターのようにきっちり四球を見送ったことのほうが驚きだなんて話していた。

 
ロッテの大エース、村田兆治との対戦について。

村田兆治さんのフォークボールは今も思い出す。ホームベースの手前でワンバウンドするボールを空振りさせられた。…… とにかく村田さんの球は速い。あの剛速球を打ち返すために、こっちは振ると決めるしかない。そこへ猛烈なフォークを放られるわけだ。投げた瞬間にわからなくなる。ボールの軌道すら見えないのだ。

 
阪急のエース、山田久志。

サブマリンと渾名された、アンダースローの山田さんの決め球は恐ろしくキレのあるシンカーだった。真ん中の絶好球と見極めて、僕はバットを振ろうとした。その真ん中に来たはずの球が、僕の肘にあたった。

デッドボールを当てたにもかかわらず、山田からは「こらっ、よけんかい」と怒鳴られたそうだ。

 
ルーキーイヤーの1986年、日本シリーズは広島カープと。キャッチャーはおなじみの達川光男。

打席に入るときはプロの儀礼としてキャッチャーに挨拶するものなのだが、僕は初めての日本シリーズで緊張して挨拶を忘れてしまった。
 
「おう、清原。挨拶ないのう」
 
達川さんが、ドスのきいた声ですかさず声をかけてきた。
 
「あっ、初めまして。清原です、よろしくお願いします」
 
「おう。じゃ、行くぞ」
 
達川さんの一言で、僕は完全に達川さんのペースにはまった。

 
第2戦目、投手が津田恒実の場面で、達川はおそるべきことを言った。

「おう、清原。全部、真っ直ぐじゃけえのお」
 
すでに勝負のついた試合ではない。日本シリーズの大舞台、1点を争う緊迫したゲームなのだ。僕は嘘やろと思いながらバッターボックスに立った。ところが、津田さんは本当にストレートで勝負してきた。全部真っ直ぐ。ボールにバットをかすらせることすらできなかった。

 
西武の門限破りの罰則は厳しく、罰金が50万円。それが門限破りを繰り返すごとに倍に増える。そんな中、清原は門限を計4回破り、50万、100万、200万、400万の計750万の罰金が課せられた。生活を改めない清原の問題が大きいとは思うが、この時は東尾が森監督に直談判し、結果罰金を免れることができたという。

 
野茂英雄について。

マウンドに立った野茂は、何と言えばいいか、とにかくでかかった。そのでかさにまず驚いた。身長は僕とほぼ同じ。そんな大きなピッチャーを見たことがなかった。…… フォークもすごいけれど、もっとすごいのはあいつの魂だ。ここでフォークボールを投げれば、僕は絶対に三振するという場面がある。狙い球をストレートに絞っているところに、フォークを投げられたらまず打てない。野茂はそういう場面でフォークを投げない。相手が待っているところに自分の球を真っ直ぐ投げ込んでくるのだ。…… あいつはしっかりと構えて、思い切り正面からぶつかってくる。打つか打たれるか、倒すか倒されるかの勝負を挑んでくる。

野茂の初めてプロでの三振は、ノーアウト満塁、バッター清原の場面で、インハイのストレートで真っ向勝負して奪ったもの。清原は、野茂タイプの投手が本当に好き。

 
伊良部秀輝も忘れられないピッチャーだという。

他の打者にはせいぜい140キロの球で適当に打たせてアウトにするピッチングをしていたのに、僕になったらほとんどムキになって三振を取りにくる。球速は150キロを軽く超えた。フォークボールまでが異常に速い。142キロのフォークを見たときは、さすがに唖然とした。目の前で球が消えるのだ。ゲームの野球盤の消える魔球と一緒だ。

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記録と王監督への意識。

100号ホームランも、200号ホームランも史上最年少の記録だった。200号ホームランまでは、王選手を上回るスピードで打ち続けていたのだ。残念ながら300号を打つ頃には逆転されていた。…… 記録を意識して戦ったことはないとは言っても、やはりそれだけは心のどこかで意識していた。

 
1996年のシーズンオフ、清原はFAで巨人に行く決断をする。

11月30日、西武との最後の交渉の席で、球団代表や95年から西武の監督に就任していた東尾さんを前に、僕は畳に手をついて頭を下げた。「夢を追いかけさせて下さい」と言ったのだ。…… 代表も東尾監督も、目に涙すら浮かべて僕を送り出してくれた。西武ライオンズという球団は最後の最後まで、親身になって僕のことを考えてくれた。

 
一方の巨人はというと、あまりに官僚的な対応だった。

ジャイアンツとの契約交渉の場は、東京の老舗ホテルだった。…… 読売巨人軍の球団代表は席に着くなり、ほとんど何の前置きもなしにだーっと条件の話をされた。現時点のジャイアンツでの評価はS選手が最高で年棒がいくらだから、君にそれ以上の年棒を払うわけにはいかない。最高年棒の2年契約でどうかな。…… 「いや、ちょっと待って下さい」と僕は言った。「その前に僕は心の整理をつけたいんです。そんな条件よりも、11年前のドラフトの時のことが僕の中ではまだ整理がついていないんです」真剣にそう言ったつもりなのだが、伝わらなかった。

 
これは意外だったが、清原の心の整理をつけたのは、巨人軍オーナーのナベツネこと渡辺恒雄だった。

渡辺さんが、僕と両親に面会を求め、「ドラフトの件は、お父さんお母さんにまで悲しい思いをさせて申し訳なかった」と深々と頭を下げられたのだ。

そして、さらに興味深いのは、清原の母が、ナベツネの人柄に動かされたという点。

「あの方は、世間が言うような人やない。温かい心のある人や。私好きやな」
その後も、僕がジャイアンツで逆転ホームランを打ったりするたびに、渡辺さんは両親のところに「感動的なホームランをありがとう」と、感謝の手紙を送って下さっていたらしい。成績不振のときに渡辺さんの発言が新聞に載ることがあって、単純な僕は腹を立てたりもしたのだけれど、いつもは僕の味方の母が、その時だけは逆のことを言った。
「あんたの成績が悪いのは事実やし、人間やからはずみでそういうこと言ってしまうこともあるよ。それを、記者の人が大袈裟に書き立ててるだけや。お母さんな、渡辺さんは個人的にはずっとお前のファンでいてくれてると思うよ。それと、大組織のリーダーとしての立場はまた別のことや」
今にして思えば、母の言うことは正しかったのだ。

今にして思えば、母の言うことは正しかったのだ。」この一文が、本書の中で一番の驚きだった。

 
巨人軍の一員になるということは、想像していたよりもはるかに大事だった。

子供の頃からの夢がかなった日なのに、会見を終えてようやく家に戻ったときには、思わずため息をついた。マスコミの包囲には高校時代から慣れていたはずなのに、そんな経験は何の役にも立たないほどの人に囲まれた。…… 西武時代はニュースでもあくまでスポーツニュースだった。ジャイアンツのニュースは、そのスポーツという枠が外れていた。野球に関心のない人にとっても、ジャイアンツの動向だけはニュースになるのだった。

まだ、野球人気が高かった頃の話ではあるだろうが、巨人とそれ以外のチームの違いが端的に説明されている。なお、西武時代の若い頃には、平気で顔をさらして友達と一緒に合コンにだって出かけていたが、巨人では到底そんなことはできそうもなかったというが、これは実感がこもっている。

 
巨人への移籍1年目の1997年、清原は満足な結果を残すことはできなかった(打率.249、32本塁打、95打点)。期待を裏切られたファンは、清原にキツく当たった。

球場を出ようとすると、ファンから罵声を浴びせられるようになった。…… 我慢するしかなかった。垂れ幕でクルマを囲まれ、タイヤを蹴られた。ボンネットやドアを遠慮なく叩かれ、火のついたタバコをフロントガラスに投げつけられた。それでもハンドルを握りしめ、必死で耐えた。顔を伏せた。無念だった。最後には、試合中の応援までがやんだ。前の打席の松井秀喜まで、応援団は盛大に応援をしていた。僕がバッターボックスに入ると、声援がピタリと止まった。清原は応援しない。ジャイアンツの応援団がそう決めたのだ。足がすくんだ。腹の底から、冷たいものが湧いてくる。目の前が真っ暗になりそうで、頭を振った。

応援のボイコットは、ナゴヤドームでの中日戦の1試合だけのよう。清原は泣きながら東名を飛ばして帰ったとのこと。

広澤克氏も言っているが、ファンに厳しい言葉をかけられたり、応援されなかったりするほどプロ野球選手にとって辛いことはないと。

一番辛い事は、自分のチームのファンに応援されない事です。敵のチームのファンにヤジられても、何とも思いません。自分のチームのファンにヤジられたり、ブーイングされたり、応援されなかったりする事で、選手は傷付きます。
応援ボイコットについて|広澤克実オフィシャルブログ「トラさんのちょっと虎話」(2012.6.5)

 
2000年のシーズンオフから、本格的に肉体改造を始め、2001年にはその効果もあってか、ホームランの飛距離は伸び、自己最高の121打点も上げた(打率.298、29本塁打)。

この年は、巨人時代の清原のベストシーズンだろう。しかし、落合博満からは、「お前、ちょっと上半身に筋肉つけ過ぎなんじゃないか」との言葉をかけられる。

落合さんはルーキー時代からの、恩師のような人だ。…… バッティングの神様だった。少しでも神様に近づきたくて、ロッテとの試合ともなると、落合さんから目が離せなかった。バッティングのフォームはもちろん、ネクストサークルでの素振りから、バッターボックスへの入り方にいたるまで…… 打てなくて苦しいときほど、落合さんの話がためになった。手首の返しとグリップの位置の関係とか、足の開き方がバッティングとどう関わっているかとか、落合さんの指摘はいつも具体的で明確で、理路整然と筋道が通っていた。…… その落合さんに、「清原のバッティングフォームは、高校時代がいちばん良かった」と言われた。

昔は、レフトからライトまで、状況に応じて自由自在に球を打つことができた。しかし今は、球を遠くへ飛ばすことにばかり囚われて、持ち味だったはずのバッティングの巧さが犠牲になっていると。それも肉体改造のせいじゃないかと、落合は言った。

 
2005年5月11日、交流戦での対オリックス戦。延長戦で山口和男から147キロのストレートを頭部に受けデッドボール。


その映像は上で見ることができる。清原が怒っているところに目が行ってしまうが、実はこの時にヘルメットに傷がついている。

そのデッドボールで、西武に入団した当初から大切にしてきたヘルメットに傷をつけてしまった。野村克也監督が西武の現役時代に使っていたヘルメットだ。入団したときに僕の頭に合うヘルメットがなくて、何気なくその野村さんのヘルメットをかぶったら驚くくらいフィットしたのでそのまま愛用させてもらっていた。ジャイアンツに移籍してからも、黒く塗り替えて使っていたのだ。

野村と清原の頭が合うというのも意外な気もするが、それよりも、20年以上にわたって同じヘルメットを使い続けているということに驚いた。それぐらい自分の頭に合うヘルメットというのは、ないものなのだろう。

 
4回に分けて投稿するほど、共感でき、興味深い話に溢れている本書。
文庫でも出ていることですし、この本は、間違いなく買いですぞ、皆さん。

 
なお、第1回(子供時代からPL学園編)第2回(桑田真澄、KK編)第3回(巨人、オリックス、引退編)はそれぞれこちら。

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