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二人のエース<江川卓vs西本聖>

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元報知新聞記者の新宮正春氏による著作。

本の内容とは関係ないが、私はこの本を神保町の野球専門の古書店として有名な「ビブリオ」にて購入した。
本の中には、おそらくこの本を最初に購入した方が挟んだであろうレシートが挟まれていた。
それによると、1990年11月に保谷市にある「BOOKS-J」という書店にて購入している。
消費税が3%の時代だ。こういった歴史が感じられるのも古書の良さ。

 
私が手にした文庫本の発売は90年だが、単行本としては84年12月に出されている。

本書は10章に別れていて、それぞれの章で主役となる選手は異なり、各章だけでも成り立っているが、章毎が少しずつ関連していて、全体を読むとおさまりが良いつくりになっている。

以下、章毎に気になった点をピックアップ。

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今回の投稿では、表紙のイラストにも使われ、84年当時の球界を代表するエース二人にスポットを当てた<江川卓vs西本聖>編より。

本書全体としては、”二人のエース”に焦点を当てた構成にはなっていないことを考えると、このタイトル及び話の順番は、商業的理由も大きいのだろう。
当時の二人のネームバリューは相当大きかったと考えられる。

まずは、江川が肩を冷やすのをかなり警戒していたというエピソード。

江川は、汗で濡れたシャツで肩を冷やすのを警戒し、いつもほかの投手より多目に予備をベンチに持ち込んでいた。
 
肩を痛めた投手にとって、冷たい向かい風は怖い。せっかく暖まった肩の筋肉をこわばらせ、微妙なコントロールを指先から奪ってしまう。
 
58年日本シリーズの失敗もそうだった。以来、江川は肩を冷やさないようアメリカ製の強力な塗り薬を擦り込み、頻繁にアンダーシャツを変えるようにしている。

その前年、セ・リーグでは優勝したが西武に日本シリーズで敗れたジャイアンツ。
59年のキャンプは、プロ入り6年目にして、江川個人としてはもっともハードな練習を課したキャンプだった。

58年11月中旬、巨人の投手陣は東大の体育研究室で筋力をはじめとした体の総チェックを受けた。
その際、西本が体脂肪11.7%だったのに、江川は21.8%も脂肪がついていた。
また、手足ともに速筋がすぐれている割に、遅筋が貧弱だということがわかった。すなわち、瞬発力はあるが、スタミナがなく疲れやすい筋肉だということ。
 
これを受けて、江川はオフの間、徹底した減量作戦をとり、キャンプでも走りに走った。
江川は気づいていないが、実はこれが王監督の巧みな作戦だった。どこか屈折したところのある江川には、頭ごなしに走れと命じても逆効果でしかない。しかし、本人がその必要性を理屈から入っていって納得すれば、黙っていてもその方向に走り出すタイプだった。トレーナーが同じことを説明するよりも、東大助教授という肩書が江川に対し強い説得力を持つことも、王はもちろん読んでいた。

江川は練習嫌いだという世間のイメージが強い。
しかしどの世界でもそうだが、マスコミやコーチたちが見ていると、故意に泥まみれになって練習する選手もいないわけではなく、江川は明らかにそういうタイプではなかったというのも世間の印象に影響しているのだろう。

高校時代のフォームと、不調だった58年に撮影したフォームを比べてみると明らかに違っていた。フィニッシュに入って、反動で左肘が肩の線と平行になっているのが作新時代の写真。58年の投球フォームは、だらりと左肘を下げたままフィニッシュに入っていた。左半身のひねりが十分に利いていない証拠だった。

 
59年の江川にとって8試合目の登板となる、5/24後楽園での阪神戦について。

この試合で、江川はストレート中心に組み立てていたピッチングを百八十度転換したようだった。両サイドぎりぎりをつくチェンジアップも、これまでの江川からは見られなかった。
 
かつてほどのスピードはないが、打者の手元で伸びているように見えた。右肩痛をかばってボールが高目に浮いていた、ついこの間までの江川はどこへ行ってしまったのか。力のピッチングから技のピッチングへのすばやい切り替えだった。
 
この試合最後の114球目は、覚えたばかりのチェンジアップだった。

今では、チェンジアップは珍しくもないが、当時は投げる投手も少なかった。
江川のチェンジアップが優れていたという話も聞かないから、決め球になるほどではなかったのだろう。

似たような話でいくと、この年の阪神との開幕戦、デーゲームが苦手な江川を王監督は開幕投手に指名したわけだが、その試合で江川はキャンプからひそかに練習していたフォークボールを少し使っていたという。

それまではストレートとカーブのキレでぐいぐい押していた江川の苦労が伺える。

この年、7/24のオールスターで8人連続三振の快投を見せた江川。その日は40球投げ、大石に対する39球目に145kmを出した。しかし、四日後の同じナゴヤ球場のマウンドでは、6回までに5点をとられKOされ、球速も最速139kmに過ぎなかった。

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続いてもう一人のエース、西本聖。

西本の入団時の月給は12万円。ツケで買った用具代や合宿費などをひかれて、給料袋には7,000円しか入っていなかった。
 
西本の練習はすさまじかった。合宿では夜、チームメイトが寝静まってから屋上に出て片足屈伸を左右合わせて300回やるのを日課にしていた。さらに指立て伏せを150回。ときには風呂場でも行なった。
 
その後、イースタンの防御率1位を手にしたが、このために無死一三塁からの投ゴロを二塁ではなくホームに投げもした。

ストイックなイメージが西本には常につきまとう。

 
西本と江川の対比。

56年、沢村賞選考委員の投票数は31票、西本に16票、江川13票、2票が白票だった。江川にまつわるダーティなイメージがその三票に反映したと考えられていた。一方、最優秀選手の選考では、江川を1位としたのは両リーグトップの146票。西本の1位票は55票だった。
 
57年末の契約更改。西本3120万円。江川は蜿々2時間粘ったすえ、球団側提示の4080円を蹴り、正力オーナーまで交渉の場に引っ張り出し、二回目の交渉で4440万円まで上げることに成功。最期の40万円の上積みにも2時間粘った。
58年末は江川はあっさり現状維持を呑んだ。西本は年明けまで粘り、4320万円でサイン。
 
西本はチームメイトから奇異な目で見られていた。あまりにひたむきすぎることが、遊び好きのチームメイトを煙たがらせ、敬遠される原因ともなっていた。
江川は、マスコミや世間が抱くダーティーなイメージとは裏腹に、チームメイトに奇妙な人気があった。58年の春、選手だけで開かれたミーティングで、選手会の副会長に選出されたのもその一例。江川もその結果を喜んでいた。

江川の”奇妙な人気”というのが気になる。

 

江川のプロでの目標は、十年間第一線で働いて、百勝以上マークすることにあった。三十五歳を区切りにして、将来の生活設計を考える。そのために入団一年目に契約金の一部に銀行ローンを足し、世田谷区奥沢に六十坪ほどの土地をまず買った。だが、都心の土地は意外に値上がり率が低いのに気づき、それならと郊外の横浜市緑区の土地に目をつけた。58年に緑区霧が丘に新居完成。住宅ローンは7年で払いきるように組んだ。返済しなければならない借金は1億円近い。

考え方が、普通のプロ野球選手とは違う。
仮にプロ野球以外の道に進んでいたとしても、周りとは違う考え方ができる(or してしまう)人間だったのだろう。

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