RSS

ローンウルフの哀歌<江夏豊vs江川卓>

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

続けて、新宮正春氏著の「二人のエース」から。

この章は主に、日ハムから西武へ移籍した当時の江夏豊と、移籍先の監督である広岡達朗にまつわる話。

まずは江夏豊の身体について。

江夏の左手の握力はきわめて弱い。南海のころの血行障害がいまだに尾を引いており、握力計を力いっぱい握り締めてもゲージは「15」を指さないときもあった。
 
47年に盲腸を手術してから急に太るようになり、それが心臓を圧迫するのか、長いイニングを投げることができなくなった。
 
1試合あたり50球以上投げるとたちまち指先が氷のように冷たくなった。野村がリリーフエースとして再生させなかったなら、投手生命はそこで燃え尽きていただろう。
ただ、そこまで握力が低下していることを、江夏は誰にも言わなかった。

握力が低下し、心臓にも負担。
凄い状況で投げていたものだ。

江夏には、強烈な自負がある。

精密機械でも扱うように自分の肉体をいたわり、つねにフル稼働できる状態においてきた。
「わしにはわしのやり方があるのんや、やり方はちごうとっても、目的は一緒なんやから、話し合えば広岡さんもわかってくれるはずや」
西武の練習法のちがいを耳にするたびに、江夏はそう自分に言い聞かせるように呟いてきた。

江夏の形式美。こだわり。

江夏はロージンバッグを一度も投げ捨てたことはない。いつもプレートの右側の決まった位置に、決まったかたちでそっと置く。
 
グラブをはめた右手を膝頭のやや上に軽くつけ、反り気味に捕手のシグナルを覗き込む。このポーズが、相手のバッターに無言の威圧感を与えることを江夏は計算に入れている。

そして、当時の西武監督である広岡達朗。

広岡は、巨人にいたときから、スポーツ紙がどんなに執拗に追っかけて来ようと、一度も居留守を使ったことがなく、質問されるとノーコメントで応じたこともなかった。
ありのまま本心を喋って、それで誤解されたり損をしても、いっこうに気にかけなかった。西武の監督になってからは、つとめて強い表現を避けるようにしてきたが、それでも水を向けられるとつい胸の内を明かしてしまう。愛想はないが、つねに表へ出て本音を喋るため、不思議な爽やかさが残った。

ゼネラル・マネージャー的なポストにいる前監督の根本との微妙な位置関係の問題もあった。連続日本一となっても、観客動員数は勝率と反比例して年々かなりの幅で落ち込んでいるという現実が一方ではあった。江夏を獲得するために、根本は広岡に事前に一言も相談せずに、広岡が中継ぎに期待していた柴田と木村広の両投手を放出し、電撃的にトレードを取り決めた。
江夏というアイキャッチャーが入れば、観客動員数も伸びるし、巨人との日本シリーズへの布石としてもこの投資は生きるはずだという読みが根本にはあった。

時を経て、広岡氏は千葉ロッテのGMとなっていたが、その時には西武時代の経験が生きたのだろうか。

所沢キャンプが第三クールに入った59年1月24日、江夏は全身66箇所にゲルマニウムの粒を貼り付けられた。一粒2500円で66粒で16万5000円となる。昼には胚芽パンも食べた。
 
ピッチングの仕上げに入ってから、江夏はがぜん自己流の調整法にこだわり始めた。ブルペンで投球練習する予定を、急にとりやめにしたり、雨のなかを一人遠投をしたり、自分のフィーリングを大切にするやり方に切り換えたのである。
 
広岡の目がふとなごんだのは、江夏がブルペンでまずアウトコースぎりぎりに初球を投げたときだった。そのポイントを起点に、ボール一個分ずつ下へ下へとずらしていく江夏独特の微調整である。
 
もともと広岡は、江夏のピッチング技術を高く評価していた。

最後に、江川の江夏への印象はというと。

これまでに一度江夏と対談で話をしている。印象は悪くなかった。
人一倍カンが鋭く、好奇心の強い江川は、一見ふてぶてしく構えている江夏の内部に、ガラス細工のような繊細さと脆さが隠されているのにすぐ気づいた。
江夏の一人称が、くるくる変わるのも江川には興味深いことの一つだった。”わし”と言ったかと思うと、次には”おれ”になり、しばらくすると”ぼく”という具合に一定していない。

— ad —