RSS

桑田真澄が現役時代を簡潔に振り返る

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SEGAのゲーム『野球つく!!』のプロモーション用の記事に、桑田真澄が登場し、簡潔ではあったが現役時代を振り返っていたのでメモ。

 
プロ1年目の1986年、2勝に終わった桑田。
高校時代があまりに華やかだったから、この結果自体は世間からすると期待外れだった。

しかし、高卒の投手ということを考えれば、最初の2年間ぐらいは思うような成果を残せないなんて普通だろうし、クレバーな印象の桑田自身もそういう状況をわかったうえでゆっくり力をつけていったのだと私は思っていた。
このインタビューで桑田は言う。(インタビュアーは永山智浩氏)
まず、1年目を終わった時点での心境について。

各球団ともすごいメンバーばかりで、「もう無理だ、どうしようか」と思っていました。

1年目でプロでは無理だと思ったので、自分は、この先どうなるんだろう、ドラフト1位だから3年ぐらいは置いてもらえるかな、3年後はどこに就職しようかな、田舎に土地を買って農業でもしようかな……そんなことばかり考えていました

1年目の秋、アリゾナの秋季キャンプに途中から合流した際も

須藤豊二軍監督が親身になって叱咤激励してくれるんですが、「そんなこと言われても、どうせプロの世界では無理なんだ」と思い込んでいました。

と、その後の桑田の姿からは想像つかないようなマイナスな言葉が続く続く

しかし、グランドキャニオンの雄大な姿を見て自分の小ささに気づき、吹っ切れたという。
荒んでいた桑田の心の中にも、自然の力を感じとれる感受性は残ってくれていたというわけだ。

— ad —

2年目からは着実に数字を積み上げていく。

最初はストレートとカーブしか投げませんでしたが、2年目にスライダーを加え、4年目にはシュート、6年目にフォークと球種を増やしていきました。一つの球種を2年ぐらい練習して実戦を重ねて、10年目に理想のピッチャーになるというビジョンを実践したんです。

変化球をすぐに使わないのは、精度を高めたいという意図もありつつ、体に負担をかけないという狙いもあったという。

練習で少しずつ体にしみこませていって、ケガのリスクを減らすということです。ケガをしないというのも目標の一つでしたから。

僕は体が小さかったので、体全体で力を出していって、体の一部に負担を掛けない投げ方を心がけていました

今や多くの投手がこれに似た考え方に基づいて持ち球の変化球を増やしたり、けが防止につとめていると思うが、90年代前半の時期には少なかったのではなかろうか。

 

フォームはいろいろと試したものの、結局は中学時代に身につけた右肩を落として投げるフォームが一番だった。

桑田がテレビで子どもに投球フォームを教える際にも、右肩を落とすフォームで投げさせて、いかに無理なく強い球が投げられるかを力説していた。

 
怪我からカムバックし、2002年には15年ぶりに最優秀防御率のタイトルを手にする。

その年はピッチングのスタイルを完全に切り替えられた年でした。若いころ、調子のいいときは真ん中高めのストレートで勝負したいという「投手の本能」のようなものがあったんですが、そういう勝負はもうできないと納得して、コーナーで勝負することに徹することができました。

常に冷静沈着な印象の桑田だが、清原との対決では、オールスターはもちろん日本シリーズでも直球勝負を挑む姿が脳裏に焼き付いている。それは、対清原にだけ持つ特殊な感情ゆえかと思っていたが、「真ん中高めのストレートで勝負したいという投手の本能」を常に抱えていたことをこの記事で知った。

それに最後の変化球となるチェンジアップを覚え、効果的に使えた年でもありましたね。

プロ17年目にして、また新たな変化球を身につける、この飽くなき向上心こそ彼の強さの根源なのだろう。

— ad —